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タイトル
番外5 夢の跡編その4 津軽の森林鉄道跡
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金木

 十三湖へ出かけた1年後の1977年8月、再び津軽へ行く機会ができた。
 たまたまであるが、高校鉄研の年間テーマが「津軽の鉄道」に決まったのである。既に高校は卒業していたが、なぜかOBには高校から合宿参加費が支給されていた。顧問のような役割ということだろうが、名目はどうあれ、特権をありがたく使わせてもらったわけだ。
 初日は津軽鉄道へ出向き、撮り鉄三昧の鉄道研究を終えて、夕方、宿泊地の金木に着いた。まだ日没まで時間があるので、営林署をちょっと覗いてみることにした。


営林署の入口


 営林署に入ると、かつての機関車の車庫と思しき建屋の横に小さな建屋がある。その入口には金木保線区との看板が掲げられたままで、ここに森林鉄道があったことは間違いない。そのほか、閉塞や列車組成などの注意看板もあったが、期待した車両などは何も残っておらず、早々に引き上げたのであった。


保線詰所と車庫


 ところが、その2ヶ月後に訪れた二村さんの記事を読んでびっくり仰天。人車や運材台車があっただって!? もしかしたら違う営林署ではないかと訝しむが、建物の形はどう見ても同じだ。う〜ん、自分だけ見つけるなんで、二村さんもずるいのである。いやいや、目立つ車体などを見落とすほうがおかしい。どこに目をつけているんだという話である。もっと言うと、後輩たちも一緒に行ったはずで、みな揃いも揃って目は節穴・・・。


瀬辺地

 津軽鉄道の後は当時の国鉄津軽線へ。同線の瀬辺地付近でも、二村さんと全く同じ森林鉄道跡を訪ねている。
 まずは津軽線と並行するガーダー橋で、二村さんとは逆の位置からの撮影だ。


橋梁跡


 そして津軽線の線路から森林鉄道跡を見下ろす形で撮影。ちょうど津軽線に踏切があった、とは思えないので、勝手に立ち入ったのだろう。今の感覚では考えられないが、当時は大目に見られていたということで、お目こぼしを。


津軽線側から


 少し離れた場所にあった小さな橋の跡にも、やはり同じく訪ねている。二村さんの上からのアングルに対して、下から見上げる形だ。
 それにしても、改めて写真を見ると、上の写真の橋梁跡といい、枕木が新しいそうなのがちょっと不思議だ。
 その疑問は、ひょんなことで解けたのであった。
 YouTubeには、青森放送が記録した映像が、十三湖以外にも多数アップされている。そのシリーズを順に視聴していると、すばり「県内の森林鉄道」という映像があった。興味深く見ていると、蟹田付近で津軽線の気動車と森林鉄道の運材列車が併走するシーンがあって大興奮。そこに、津軽線は森林鉄道を横に移設して、その路盤跡を利用して敷設されたというナレーションがかぶる。そういうことか、と膝を打ったのであった。


ガード跡


浜名

 しつこいが、浜名付近で津軽線をオーバークロスする森林鉄道の橋梁跡へも二村さんと同様に訪ねている。
 二村さんとは少し角度は違うが、橋を横から撮影したもの。枕木が並んでいるのがよく見えて、まだ線路が残っていると錯覚を起こしてしまいそうだ。
 ところで、前述のとおり、津軽線は森林鉄道より後にできたのだから、当初はこの橋梁もなかったのだろうか。


津軽線をオーバークロス


 こちらは橋の上から見たところ。またしても二村さんとは逆方向から撮っている。


橋梁上の様子


 以上が津軽の森林鉄道跡の記録である。本当に二村さんとは、なぞるように同じルートをたどっている。森林鉄道の遺構は限られるので、自ずと同じ場所を訪ねることになったと言えるかも知れない。
 これらの遺構は今、どうなっているのだろうか。グーグルマップで調べてみると、瀬辺地の小さな橋梁跡は、ストリートビューで橋台が残っていることをはっきり確認できる。一方、瀬辺地や浜名のガーダー橋は、ストリートビューでは近寄れないものの、航空写真でそれらしい影が見える。もしかしたら、今も残っている? 俄然もう一度現地へ行って確かめてたいという気持ちが湧き上がるのである。

 余録はこちら。

【1976年7月・1977年8月現地、2020年3月記】

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