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タイトル
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下津井電鉄 路線図
地図

1.はじめての下津井電鉄

 パタン、「えっ?」驚いて振り向くと、20系寝台客車の扉はしっかり閉ざされていた。
 ホームに残された私は、慌てて車掌のところへ走り、「乗りま〜す」と叫ぶ。
「これは寝台専用の特急列車ですから乗れません。次にしてください」と車掌は冷たく言い放つ。
「いえいえ、僕はこの列車に乗ってきてたんです。信じて開けてください」とひたすら哀願する。
 車掌は疑わしげな目をしながらも、なんとか扉を開けてくれた。

 ここは岡山駅。昭和51年(1976年)3月末、高校の鉄道研究会の春合宿で、下津井電鉄に向うため、東京から寝台特急『瀬戸』に乗ってきたのであった。みんな一緒に宇野まで行く予定であったが、夜が明けて、腹が減った私は、食べ物を物色するため、ひとり岡山駅のホームに降りたがために、締め出されたのであった。ちなみに肝心の食べ物も、朝早すぎて店も開いておらず、何も手に入れられなかった。ただ恥をかきにホームに降りたようなもので、何とも冴えない一日のスタートである。

下津井駅にて
下津井駅で並ぶクハ24(左)と
モハ1001。(たぶん)
 宇野からはバスで下津井電鉄の始発駅、児島へ向う。このころは瀬戸大橋線もできていないので、児島に国鉄の駅はなく、文字どおり離れ小島であった。
 下津井電鉄は、もともと茶屋町〜下津井間21.0kmを結ぶ軽便鉄道で、国鉄とも接続していたのだが、1972年(昭和47年)、茶屋町〜児島間が廃止され、残ったのは児島〜下津井6.5kmのみ。鉄道自体も離れ小島の鉄道になってしまっていた。

下津井に向かう車内にて
下津井に向かう車内にて。意外に乗客が多い。
車体幅の狭さはナローならでは。
 児島からみんなで下津井電鉄に乗って下津井へ。下津井に着いてみると、廃車になった車両たちが、そこここに保存、というより放置されていて、朝の冴えない気分はいっぺんに吹き飛び、撮影に没頭してしまった。
 当時は、まだそれほどフィルムを使うほうではなかったのに、ネガを確認してみたら、車庫だけで50枚くらい写真を撮っている。珍しく日記にも走り書きがあるので、その部分を転記してみよう。

 なぜあんなに興奮したのかわからない。いや、わかるような気もする。廃車になった車両たちがあちこちにいる。モーターをはずされ、パンタグラフを抜かれ、窓ガラスをわられた車両たちが、おし黙ってじっとしている。
 なんとなく重苦しいような、しかし、のんびりしたふんいきにのまれて、あやつられるようにシャッターを切ってしまった。
 よほど興奮していたのだろう、冒頭の『わからないけどわかる』に始まって、『重苦しいけどのんびり』で締めくくるって、一体なんのこっちゃ、という文章である。青臭い高校時代に、感情の昂ぶるまま書いたものだから、と言い訳したいところであるが、冷静に考えてみると、情に流されて脈略のない文章を書く癖は、今も抜けていないことに気がついた。せっかく25年前の日記を引っ張り出してきたのに、なつかしいというより、情けない気分である。

女子部員たち
児島駅で電車を待つ女子部員たち。
今はみな音信不通だが、元気かなあ。
 それはさておき、このときは単独行動ではなく、鉄研の合宿で、かつ女子部員もいたので、廃車だらけの車庫にずっといるわけにはいかない。ほどほどで切り上げ、みんなで有名な鷲羽山に向かう。
 鷲羽山は、山といっても標高100mほどで、小高い丘にのぼる感じである。それでも、山頂からの瀬戸内海の眺めは、なかなかのものであった。
 そのまま下津井まで、みんなでぶらぶらと散策する。じゃんけんで負けた者にみんなの荷物を持たせたり、合宿という名目ではあるが、ある意味、子供気分の抜け切らない高校生らしい旅行であった。

 下津井に戻ってからの記憶が定かではない。ネガの様子からその後は単独行動をしているようだ。おそらく下津井で一旦解散して、女子部員たちは一足先に宿泊地の岡山(倉敷だったかも)に直行したのだろう。一方の私は下津井電鉄に乗ったり、撮ったりしながら、児島に戻ったのであった。


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