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ジルゼの事情


 また、歌手のCoccoのこと。
 何かと慌ただしかったはずなのに、今年(2014年)1月、Coccoが初めて舞台に立った「ジルゼの事情」はどうしても観たかった。
 なんとか日程をやりくりして、チケットをとり、大阪での公演に出かける。


Coccoshadowshadow


 実は生のCoccoは初めて。そもそも劇を観ること自体、学芸会程度の経験しかないので、初めてと言っていい。
 初めてづくしとあって、行く前からどきどきそわそわ。劇場の勝手は分からないし、何よりも、おっさんが行ったら浮くのではないかという懸念もあった。
 劇場に着いてみると、案の定、お客の9割方は若い女性だ。ただ、劇場内に浮ついた雰囲気はなく、Coccoファンならではと言うべきか。緊張はしていたものの、そんな観察をする余裕は残っていたのである。
 それでも、心配の種はつきない。前衛的で難解な劇だったらどうしよう。あの塚本監督の映画「KOTOKO」は結構つらかった。あれを生で観たら耐える自信がない。

 結論から言えば、すべて杞憂だった。若い女性客に混じって、ちらほら年輩の男性客もいたし、別に計ったわけではないだろうが、私の席は、両隣ともおっさんであった。
 そして肝心のCoccoは、存在感が圧倒的。この一言につきる。もちろん、プロの劇団員も主役のCoccoを引き立てる演技をしていたのだろうが、ひときわ光っていた。
 当のCoccoは、初めての舞台ながら、肩に力が入っているふうもなく、素のまま演じていたように見える。そのせいもあって、塚本監督には申し訳ないが、「KOTOKO」よりも、すっと心に入ってくる。おまけに小ぶりのホール2列目という席で、Coccoの息づかいまで感じられそうなのであった。

 舞台後半、Coccoがバレエを踊るシーンがあった。プロのダンサーと比べたら、技量的には差があるに違いない。でも、Coccoの踊る姿からは、彼女の嘆き、悲しみがストレートに心に突き刺さる。図らずも、ぐっとこみ上げてきてしまい、自分でも驚く。
 塚本監督が「KOTOKO」で、Coccoを踊らせたかったと言っていた意味がやっとわかった。

 ただ、そこから先がいけない。いや、いけないのは舞台ではなく、自分である。大勢の若い女性客の中で、おっさんが涙を見せるわけにはいかないと、感情をシャットアウトしてしまったのだ。つまり感情移入はやめて、極力客観的に見るようにしまったわけだ。おかげでクライマックスのエンディングには浸れなかったのである。
 舞台がはねて場内が明るくなると、隣のおっさんがぼろぼろ涙を流している。なんだ泣いてよかったんだ、なんて気づいても後の祭り。

 もう一度観るには、DVDなど映像化を期待するしかないと思っていたら、なんと再演するというではないか。今度は劇場も大きくなって、ちょっと大人の事情も垣間見えるが、そんなことはどうでもいい。早速チケットを購入したのはもちろんである。
 実は、もう明日が予約した公演日だ。さあ、今度こそ思いっきり泣くぞ!?



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