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行きつけの店

 やれドトールだ、タリーズだのと言っているが、実は30年来の本当の行きつけと言うべき喫茶店がある。
 カウンターと、おまけのボックス席がひとつだけの小さな店だ。カウンターの中では、たいていマスターと奥さんの2人が切り盛りしていた。
 この店に通い始めたのは新入社員のころ、会社の先輩に「うまいコーヒーがある」と連れていってもらったのがきっかけであった。
 確かにうまい。
 以来、毎日のように通い、家で豆を挽くようになってからも、もちろん豆はこの店で買っている。

 で、肝心の店の名は「珈琲館」
 あのUCCグループのチェーン店ではない。GoogleやYahooで検索してもヒットしない、まさに隠れ家のような店だ。
 と、原稿を書いた2年半前はそうだったのだが、最近検索しなおしてみると、ああ!誰かが食べログに投稿している・・・。
 そうなったら隠し立てしてもしようがない。初めてだと間口が狭く中も暗いのでちょっと入りにくいかも知れないが、機会があればご賞味あれ。

 いつも通っていた「珈琲館」であるが、勤務先の事務所の移転や自分自身の転勤で、たまに珈琲豆を買いにいく程度になってしまった。それで行きつけとは口幅ったい。
 もう一昨々年になるが、神戸へ出かけた際、立ち寄ったときのこと。
 「いらっしゃいませ」と、いつもどおり声をかけてくれるのは、マスターと奥さん。と言っても、もう何年も前に代替わりした息子夫婦である。
 勘定の際、マスターが「西の方へ転勤になったとか」と尋ねてきた。
 「そう、もう1年以上経つんだけど、なんとなく言いそびれてしまって。でも、誰からそれを?」
 「Aさんから教えてもらいました。たまに寄ってくれるんですよ」
 Aさんも会社の先輩である。どういう会話の流れだったかわからないが、自分の名前が挙がったことが、少々こそばゆい。

 珈琲館を出て少し歩くと、ある写真店がある。
 この写真店とも長いつきあいだ。フィルムの現像やプリントはもちろん、証明写真や年賀状の印刷など、何かと利用していたのである。
 そう言えば、ずいぶん前に珈琲館で豆を買ってから立ち寄ったとき、店の女将さんがそれに気づき、
 「ここのコーヒーはおいしいわよね。私もいつも買ってるわ」と声をかけられ、
 「そうですよね。でも冷蔵庫にしまっても、風味を保つのが大変で」と答えると、
 「あら、私なんか冷凍庫で冷凍よ」
 「冷凍?ああ、豆を挽いてから・・・」
 「い〜え〜豆のまんま。大丈夫、冷凍したままでもちゃんと挽けるから」
 なんて会話を交わしたことがあった。
 でも、デジカメにしてからは、完全に足が遠のいてしまった。証明写真は街中のセルフ撮影だし、年賀状も自宅のプリンターだ。実を言うと、もう10年近く店に入ったことすらない。同じ行きつけでも、いよいよ「だった」と過去形で言わざるを得ないのだ。
 そんな事情なので、店の人と顔を合わせるのが後ろめたく、足早に通り抜けようとすると、
 「あら、宮田さん、ちょうどよかった、ちょっと寄ってくださいな」と声がかかってびっくり。声の主は、珈琲豆を冷凍すると言っていた女将さんだ。長いこと訪ねていないのに、顔どころか名前まで覚えていてくれたとは。そうとあらば立ち寄らないわけにはいかない。
 「すみません。デジカメにしてからとんとご無沙汰で」
 と、まずは言い訳からの挨拶。
 「いいのよいいのよ、わかってるから」
 呼び止めたのは、店の移転を知らせたかったからだそうで、新しい店の案内図を差し出す。見ると、移転先は裏通りで条件が悪い。事情は聞きにくいので、そのまま受け取り、新しい店にまた顔を出します、とだけ言い残して店を出る。

 移転先の店舗を訪ねたのは、やっと翌年になってからのことだ。今さら新装開店祝いというのもおかしいので、菓子折りだけ持参して訪ねる。
 何気なく「みなさんお元気ですか」と切り出すと、
 「2年前に社長は亡くなってしまったけどね」
 「そうだったんですか・・・」
 次のせりふが続かなくなってしまった。その後の会話も途切れがちで、最後は同じせりふ「また来ます」と言って、逃げるように店を出る。
 駅へ歩きながら、10年以上ブランクがあるのに、不用意な口上をしてしまった自分を悔いる。
 このままではいかん、何とかリカバリーしなくては、と思いながらも、また月日ばかりが流れている。



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