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 車両編3/3



2400系
 正直言うと、2400系も子供の頃の明確な記憶はない。4両編成で全長70mに抑えるため、両端の先頭車は全長15m強、中間車2両は19m弱としたということを知って興味を覚えたのは、ずいぶん後になってからのことであった。
 その後の形式では、すべて20m4扉の大型車になったので、2400系が小田急最後の中型車である。でも、後の2600系、4000系、5000系と続く、前面の貫通扉を中心に、シンメトリーに運転窓を配置した、小田急らしい顔は、この2400系で確立されたと言ってもいいのではないだろうか。
 ところで、1978年に撮影した2400系の写真を見ると、2600系と同じように運転台後ろの窓がルーバーになっている。昔からそうだったのか記憶にないが、もしかしたら、2600系で好評だった(というより苦情が減った?)ので、2400系にも使うようになったのかも知れない。

経堂車庫の2400系 秋の野を行く2400系
上は、1978年に撮影したもの。場所は失念。
先頭車両と2〜3両目の全長の違いがわかる。
小さくてわかりにくいが、運転席後ろの窓がルーバーになっている。
左は、1400形教習車と同じく1974年に経堂車庫で撮影したもの。
小田急らしい端正な顔つきである。


5000形
「ママ、あの電車な〜に?」
「ああ、あれはね、御殿場行きの電車よ」
「ゴテンバ・・・」
 パンタグラフもない電車が、たった1両で多摩川を渡る姿といい、『ゴテンバ』というえもいえぬ響きの行先といい、この5000形は、まさに別世界へ向かう電車に思えてならなかった。
 言うまでもなく、5000形と言っても、現役の5000系ではなく、いわば先代の5000形のことである。さらに付け加えると、パンタグラフがないというのは、もちろんディーゼルカーのことで、まだ非電化だった御殿場線乗入れ用の車両であった。
 1968年(昭和43年)、御殿場線電化後は、5000形4両すべてが関東鉄道に渡り、常総線で1988年(昭和62年)まで余生を送ったのであった。
 いや、思わず『余生』などと書いてしまったが、5000形は1955年につくられたのだから、小田急籍だったのは13年だけで、結果的に関東鉄道時代のほうが、はるかに長かったのである。
 5000形再会のため、関東鉄道常総線に一度は行かなくてはいけないと思いながら、果たせないまま廃車になってしまった。
 それどころか、各地のローカル私鉄に引き取られた他の小田急電車も、いつのまにか全部廃車となってしまって、今はその姿を見ることはできない。


現役の通勤型電車
 かろうじて残っている2600系をはじめ、旧型車の部品を再利用して2600系の車体を載せ、後に新性能化するという数奇な経緯をたどった4000系、私にとっての小田急の顔を残す5000・5200系が、現役の古参グループと言っていいだろう。
 そして、がらっとイメージチェンジした9000系、それに比べてずいぶんおとなしくなった8000系が中堅グループ、車体をステンレス化した1000、1500、2000系が最新グループとなる。ただ、ステンレス車になると、東京を離れた後の電車で、さすがになじみは薄い。

多摩川を渡る4000系 多摩川を渡る新性能化前の4000系。(1978年撮影)
これまた粒子の荒れた写真で恐縮だが、そんな写真でも、きらきら光る台車で4000系とわかる。
これは、4000系が、ディスクブレーキが外側に露出したパイオニア台車を履いていたためだ。


 さらに、つい最近登場した同じステンレス車体の3000系になると、車体の裾も絞るのをやめて、前面の貫通扉もない極めて直線的なデザインとなってしまった。車両の製作コストや、メンテナンスコストを考えれば、しかたのないことかも知れないが、一抹のさみしさはぬぐえない。
 果たして今、仮に小学生当時の私が3000系を見たとしたら、2600系のように心ときめくか、少々疑問なところだ。
 えっ?子供の頃は誰でも新し物好きなのだから、当時の2600系の思い出を、今の3000系と比べるのは、感傷にすぎないって?
 う〜む、確かに、だんだん年寄りの懐古話じみてきたので、このへんで『車両編』は締めくくることとしよう。



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