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三池鉄道路線図
地図

 3年後の78年(昭和53年)、また三池鉄道へ行った。
 三池鉄道が気に入っていたこともあるが、情けないことに前回乗った客車がモハ63だったということに気がつかず、改めて見てみたいという思いもあった。 弟はその頃はもう別の道に走っていて、同伴者は地元大牟田出身の大学の後輩であった。
 前回と同じく、西原駅で列車を待つ。やってきた列車を見ると、4扉で3段窓、ああ、まぎれもなくモハ63だ、と感慨深く見つめていた。
モハ63。戦中、戦後の混乱期に登場した通勤型電車。1000両以上製造され、国鉄だけでなく、戦災で疲弊した各私鉄にも譲渡され、戦後復興に果たした功績は大きい。
しかし、1951年(昭和26年)京浜東北線桜木町駅で、垂れた架線にモハ63が接触、ショートしたことから火災が発生し、逃げ場を失った乗客106名が焼死、92名が重軽傷という大惨事(桜木町事件)を起こてしまった。
多くの死傷者が出たのは、ショートによる停電で扉が開かず、窓も中段の開かない3段窓で乗客が脱出できなかったためであるが、文献で、燃え盛るモハ63の写真を初めて見たとき、車内に閉じ込められて焼死するというおぞましさに身震いしたものだ。
そもそもモハ63は戦中、戦後の物資不足の中、質より量に重きをおいて安全性は二の次だったことは否めず、この事故を契機に難燃化対策などが急遽施され、形式も72形と改められた。ただ、その後は比較的近年まで活躍したことや、現在でも通勤電車の基本形は全長20mに4扉ということをみても、基本設計に間違いはなかったのだろう。これらの功績と『桜木町事件』とのギャップが大きすぎて、一言では表しにくい車両である。

 そのモハ63が電装は解除されているとはいえ、原形のまま目の前にいる。まさに歴史の生き証人を前に感慨深いものがあったのである。
三池港駅の時刻表
三池港駅の時刻表。
下手なローカル線顔負けの
本数だった。朝早くから
晩遅くまで走るのも通勤
路線ならでは(1978年撮影)

 と、当時は思っていたが、63形を特集した鉄道ファン1996年1月号を読んでみたら、三池鉄道のモハ63は最初から客車として自社発注したものだそうで、国鉄の払下げではなかったようだ。
 そう言われてよくよく写真を見れば、3段窓の中段は開くようだし、運転台があるはずの妻面の設計も最初から車掌室としていたようだ。でも、見た目はモハ63以外あり得ない形態である。(前回気がつかなかったことは棚に上げて・・・・・)
 なぜ三池鉄道がわざわざ電車の63形を客車として発注したのか、そこまで鉄道ファンには書いていなかったが、推測するに20mに4扉という通勤専用設計が、社員輸送目的の三池鉄道にぴったりだったのだろう。
 それにしても九州内の国鉄の電化が始まったのはずっと後だし、そもそも交流電化だからモハ63が走れるはずもない。西鉄への払下げもなかったようなので、もしかしたら三池鉄道のモハ63は九州唯一だったかも知れない。

 ここまで書いたところで筆が、いや指が止まってしまった。うんうん唸ったものの、うまくまとまらないので、いかにも尻切れとんぼではあるが、三池鉄道訪問記はこれにておしまい。

【1999年6月記】


三池炭鉱は、石炭の産出量も日本最大で、誰でも知っている名実ともに日本一の
炭鉱でしたが、1997年(平成9年)3月、ついに閉山となってしまいました。
石炭が黒いダイヤと言われていた時代の賑わいは、想像以上のものだったでしょう。
また、明治以降の日本の近代化に果たした役割も大きいものがあったと思います。
一方で、大規模な落盤事故などの暗い事件もあり、
比べるものではないのですが、モハ63に通じる光と陰を感じてしまいます。
そして、閉山で三池炭鉱のすべてが歴史の中に封印されてしまいました。
あのやさしい係長さん、運転手さんたちは、どうしているのでしょうか・・・・・

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快適な通風を考慮して
3段にしたそうだ。

立客用の通風

はめ殺し
(座席客の髪が
乱れない)

座席客用の通風


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