<本文は1980年に書いたものです>
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 ワッ!きれいな人だな。憧れちゃうな。来た来た。
「どちらまでですか?」
「あ、あの、尻屋崎ぐ、ぐちまで」
 当時、純情な高校生だった私はどもってしまった。
「燈台まで行きますけど」
歩いても大したことないでしょ」
「20分から30分ぐらいかかりますよ」
「それじゃ、燈台まで」
「はい、燈台まで、550円です」
 千円を差し出すと、「おつり、ちょっとお待ち下さい」小銭がなかったようだ。
 それにしても、きれいな車掌さんだった。今まで修学旅行などで、バスの車掌の○○さ加減にはあっきれかえっていた私も驚いてしまった。みなさんもバスは下北バスに乗りましょう。でも、まだ、いるかな?
 ちなみに、バス料金は今、700円になっている。

タイトル

第9回 ナロー編その6 北の果て 尻屋崎


昼休みで停車中
昼休みで停車中

 東京、新宿 紀伊国屋書店、ある春の日、ひっちゃきになって5万分の1の地図を捜している男がいた。
 いならぶ引出しを、引出しては戻し、引出しては戻したりすること約1時間、突然、その男はニマーッと笑って、1枚の地図をひっぱり出した。その地図には、『尻屋』と書かれてあった。
 この男こそ、誰あろう、私自身である。何の資料もない軌道を、私はいつもこのようにして見つけ出している。
 こうして捜しあえた尻屋崎の軌道、「絶対行くぞー」と心に誓ったのであった。

 そして、♪軌道めぐりのォ バスは走るゥー、 来たぞー、
 突然、バスの中が騒然となった。「こんなところに鉄道がある!」
 ○○○○○、俺はこれを見に来たんじゃ!
 それでも、燈台まで切符を買っていたので一旦通りすぎるが、しっかり『日鉄鉱業所前』というバス停で降りればいいことを確認した。
 燈台では、アベックや仲間連れが記念写真を撮りあったりして、一人の私は非常におもしろくないので、まだ停車中のバスに引き返した。すぐ戻ってきた私を見て、きれいな車掌さんは、けげんそうな顔をしたが、「日鉄鉱業所前までください」と言うと、さらにその色を濃くした。
 そんな車掌さんとも別れて、いざ、軌道へ。数本、列車を撮ってから、信号所、車庫、工場を兼ねているようなところへ行き、写真を撮らせてもらった。その時、すこし話したことをまとめてみると、 イラスト
 ・ 線路は複線のようだが、実は図のようにエンドレス
   である。
 ・ 車両は、15tと10tのディーゼル機関車がそれぞれ
   2〜3両ずつ。昭和50年製なんて新車もいる。
   ゲージはナロー、762mm。客車はない。
 ・ 採っているのは石灰石で、それを積出港まで運搬
   するための軌道である。
 ・ トンネル部分が多いので、DLでは排ガスがこもるのでは、という疑問に対しては、
   大きな送風機をまわして、こもらないようにしているとのこと。
 ・ 余談だが、社会学をまじめに勉強した人なら、ご存知だろうが、尻屋は原始共産制を
   とっていた部落として知られている。そのことはNHKの新日本紀行でも紹介された。

 ウ━━━━━、お昼のサイレンが鳴り、みんなメシを食いに行ってしまった。近くに食堂もないので、ぶらぶら写真を撮っていた。昼休みも終わり、鉱員達に、
「オメエ、メシ食ってねえだろう、ぶったおれんな」
なんて言われた。
 昼からも5〜10分ヘッドで、ワンパターンでやってくる。腹も減ったし、いいかげん飽きてきたので、また、下北バスで帰った。今度はさっきの車掌じゃなかった。がっくり。

1976年7月の軌道めぐり
【1980年7月発行キロポスト第91号】


細かく読まれている方はお気づきかも知れませんが、尻屋崎へ行った
1976年7月というのは、その8の奥羽種畜牧場の軌道跡と同時期です。
このときは初めての東北の旅で、尻屋崎から大畑線(今の下北交通)、大湊線で
野辺地に戻って1泊し、翌朝、旅館にお金を置いたまま南部縦貫鉄道に乗ってしまった
ということで、実際の行程は、連載順と逆になっています。

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そのとき、実は燈台に行くつもりなど端からなく、 尻屋崎口から逆に軌道へ歩いて戻るつもりだった。
さらに今は1,270円。
冨田勲のテーマ音楽がすばらしかったですね。 あの音楽を聴くと、無性に旅がしたくなったものです。

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