第6回 ナロー編その4 立山砂防軌道
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千寿ヶ原にて
1981年(昭和56年)撮影
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立山砂防軌道は、常願寺川に数多くある砂防ダムの資材運搬を目的とした、千寿ヶ原から水谷まで約18キロの軌道である。
昭和元年、内務省の下に建設が始まり、同4年運転を開始、現在は建設省の管轄下にある。
ゲージは610mm、戦前は6キロレール、4tガソリン機関車を使用したが、戦後15キロレール、5tディーゼル機関車を使用するようになった。かつては営林署の軌道が水谷から先に延びており、また、温泉湯治客も利用していたが、今はいずれも行われていない。
冬季は、雪のためストップ、4〜11月のみ運転する。しかし、保線の状態はよく、枕木は新品、車両も酒井工作所製を中心に新車がずらりと並び、さすが親方日の丸である。
さて、ここまで簡単に紹介してきたが、実際この軌道を知っている人にとって、こんなことはどうでもいいのだ。
45段スイッチバック。これが『すべて』である。
特に樺平には連続18段
スイッチバックがあり、壮観である。
さて、今回も後輩を連れて、堂々と砂防事務所に乗り込んだ。「便乗を」と頼むがどうしてもだめだった。
しかたなく、周辺で写真だけ撮り、連れは帰った。僕は民宿を予約していたので明日に不安を抱きながら泊まった。
この軌道には、2日粘れば乗れるというジンクスがある。それだけを頼りに翌日今度は直接運転課?にでかけて便乗を頼んだ。
「よくそんな人が来るんでねぇ、
客輸送が目的じゃないんで安全じゃないから、よく脱線もするし・・・・・」
と渋っていたが、
「ゆうべは泊まったの?」
「ええ」
「どこに?」
「○○(残念ながら失念)という民宿なんですが」
「ホォ、○○さんねぇ」
急に表情が和んだ。知り合いか何かだったのだろうか、なんとやっぱりジンクスどおり、乗せてもらえることになった。変な紙切れを出してきて、これにサインしろという。読んでみると、たとえ本人が死亡しても賠償の請求はさせませんというようなことが書いてある。ちょっと背筋に冷たいものが走ったが、ええぃままよ、とサインした。
「それでは、13時発なので、その頃また来てください」
こうして事務所を出た。
この軌道は、午前中と午後、1往復ずつ走るが、その運転形態はおもしろい。千寿ヶ原(標高490m)から水谷(標高1,100m)まで登りづめで、勾配もきついためか編成両数が少なく、機関車にトロッコが4〜5両しかつかない。しかし、いくらなんでもそれでは輸送量が少なすぎるので、4〜5編成で続行運転を行っている。
また、全行程に2時間弱かかるため、途中に交換設備もあるが、有効長が短く、
続行運転同士の交換は不可能である。
グルルルルーン、とエンジンがかかった。いよいよ発車だ。早速スイッチバックをのぼり、森の中、深い谷を渡る。常願寺川沿いの軌道からの眺めは、やはり普通の鉄道と違い、すばらしいものだ。
デーンと構えた山が近づき、その肌にいくすじものジグザグにのぼる軌道を見上げて、ここが18段スイッチバックの樺平かと気づいたとき、予想以上のスケールの大きさに圧倒されてしまった。人間のつくったものではあるが、すばらしい自然現象(例えば夕焼けとか虹とか)を見たときの感動に似ていた。
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樺平のスイッチバック
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こうして進み行くうち、涼しくなってきたので上着を着た。トンネルの中は寒いくらいだ。ガクンと揺れるたびに、すわ脱線としがみついたりしたが、無事水谷に着いた。
しばらく後、また引き返すわけだが、いつのまにかいなくなってもらっては困るので、トイレに行くのをちょっと我慢した。しかし、これが大いなる不覚であった。発車したとたん、もうやばくなった。あとは冷や汗だらだら。同乗の人と話したりしたけれど、うわのそらで、早く千寿ヶ原へ着いてくれと祈っていた。ほかのことを考えようとしても、ついつい「ボーコーが破裂するのでは」なんて考えてしまう。ようやく千寿ヶ原に着いたが、かなり早着してくれて助かった。すぐトイレに走るが、ボーコーに刺激を与えないように走るのは苦労する。
トイレを見つけると急に余裕をもって歩き出し、「別に俺は我慢しきれないわけじゃないんだ」という顔をしてトイレに入った。こんなところで見栄をはってもしかたないのに。
放尿と同時にあふれ出る涙は、やっと小便ができたという安心感と、安心したおかげで砂防軌道のすばらしさが走馬灯のように表れ、改めて感動をした涙であった。
汚い話でごめん。
1976年9月の軌道めぐり
【1978年7月発行キロポスト第65号】