島原鉄道2003〜2004
<キハ20が走っていた頃>1/3
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■ 2003年
今(2010年)から、もう7年も前のことになるが、2003年秋、『ローカル私鉄なるほど雑学』の取材と称して島原鉄道を訪ねた。
寝台特急『あかつき』で諫早に到着。まずは南島原まで直行し、取材の趣旨を伝えて許可をもらい、車庫のキハ20を見学させてもらう。
南島原駅で、運転士が「今日の雲仙は気持ちよか〜」と口にしていたとおり、くっきりと晴れ渡った青空が実にさわやかだ。
車庫にいたキハ20は、国鉄色1両、いわゆるタラコ色の首都圏色1両、ヒゲ付1両、オリジナル塗装3両の都合6両。
学生時代は珍しくもなかったキハ20も、もはや希少な存在で、6両も揃っているのはなかなか壮観であった。
もっとも古そうなキハ20の銘板を見ると、帝国車両(今の近畿車両)昭和33年とある。「おお同い年だ、お互い歳をとったな」と慰めあったのであった。
南島原駅に停車中の国鉄色キハ20 オリジナル塗装のキハ20
いったん島原に戻り、取材のため(しつこい)、11:29発のトロッコ列車に乗車。
島原駅で発車を待つトロッコ列車。
両端のキハ20形とキハ2550形が、トロッコ車両2両をはさむ形の編成であった。
元貨車のトロッコは、走り出すとガンガンと鋼製貨車ならではの激しい音で、せっかくのアナウンスが聞きとりづらい。まあこれも、トロッコ列車ならではの醍醐味とも言えるだろう。
島原外港を過ぎて、しばらくすると、雲仙普賢岳の姿が見える。
「これだけよく見えることは少ないですよ」案内係の方の説明だ。
途中、沿線の畑で、トラクターに乗った農家の男性が、笑顔でこちらに手を振っていた。おそらく普賢岳の噴火で、畑も住まいも大きな被害を受けたに違いない。それなのに、あんなに屈託のない笑顔で手を振ってくれる姿が胸に迫り、こちらも大きく腕を振って、答えるのであった。
トロッコ列車は、深江で折り返して、再び島原駅に戻る。案内係の説明が、とても詳しいので、島原駅での下車時に尋ねてみた。
「島原鉄道のOBの方ですか?」
「いえ、隣の会社にいました」
「隣?」
「島原鉄道本社の隣の宝酒造で働いていたんですよ」
とのこと。確かにその後、島鉄本社前駅を通る際、確認してみると、しっかり「TAKARA」とのロゴが見えたのであった。
左上)貨車改造のトロッコ車両
右上)島鉄本社前〜南島原間の入り江沿いを走る
左) トロッコ列車から見た雲仙普賢岳
トロッコ列車のあとは、安徳〜瀬野深江間へ行ったり、島原へ戻ったりしたが、欲張ったせいもあって、どれも写真としては失敗。
大正時代の開業時の面影を残す南島原駅
あきらめて南島原発15:28のキハ20に乗って古部へ向かうことにする。
車内はガラガラなのに、恥も外聞もなく、一番前の運転席横の2人掛けのシートに腰掛ける。学生時代、キハ20のこの席を特等席と呼んでよく座ったものだ、となつかしく思う。