広島電鉄 前編
もともと涙腺の緩い私であるが、本を読んで一番泣かされたのは、学生時代に読んだ井伏鱒二の『黒い雨』である。
その中で、ある青年が被爆後の広島の町を歩いていると、ぼろきれのように変わり果てた少年から「お兄ちゃん」と声をかけられ、たじろぐという一節がある。なかなか弟と信じられない青年であったが、「帯革に特徴があったはず」と言うと、「これだろう、お兄ちゃん」と少年がさっとバンドを抜き取って青年に見せる。「そうだ久三、おまえは・・・」声をつまらせて少年のバンドをはめてやる。
このシーンを読んだ瞬間、弟のいる自分が重なり合って、こみ上げる涙を抑えきれなくなったのである。
中山千夏の歌に『広島の川』という歌があったのは、ほとんどの方がご存知ないであろう。
うろ覚えであるが、こんな歌詞であった。
「広島の町はよ、川ばかりじゃけん、ちょっと歩いたら川があるんじゃ・・・
三番目の川は元安川、ピカドン川じゃけん、盆にゃ涙川・・・
朝の満ち潮にゃよ、昼の引き潮にゃよ、ピカドンの恨みが流れとるんじゃ・・・」
そんな広島に一度行きたいと思いながら、機会を逸していた。ようやく訪問できたのは、昭和57年(1982年)のことであった。
その日の日記を転記してみると、
広電で原爆ドーム前まで行って、広島の川の歌を思い出した。目の当たりにすると、原爆のうらみ、つらみがまだ死んではいないことを感じる。何としても割りきれない。
原爆ドームに着くと、急にどしゃ降りの雨となった。しかし、それは無色透明な雨粒、黒い雨ではない。改めて平和のありがたさを知るとともに、武器と武器のバランスの上に乗っている平和というものが、どれくらい安全といえるものなのか、不安にもなる。
いかにもという写真で恐縮だが、
原爆ドームをバックに相生橋を
ゆく被爆電車650形
『広島』と聞くと、やはり原爆のことを思い起こしてしまう。
原爆投下時の日本はもう実質的に敗戦状態だったのだから、アメリカ側も戦略的には不必要だったはずだし、そもそも日本側も早く降伏を決断していれば・・・
歴史に『たら』『れば』は禁物というが、15万人もの人々が、なぜ一瞬にして命を落とさなくてはいけなかったのか、答えが見出せなくなる。
どうも原爆にこだわりすぎて、重苦しくなってしまった。本題の広島電鉄に話を戻そう。
同じ日の日記には、広電の印象も記している。
広電、あんなに楽しいものだとは思わなかった。俗っぽいが、生きた博物館だ。わかっただけでも旧京都、大阪、神戸、西鉄、まだ他にも形式があったので、今度ゆっくり行ってみたい・・・
なんて書いておきながら、再び広島の地を踏めたのは、昨年(1999年)末、『がんばれ!路面電車』の取材であり、いつのまにか17年の年月が流れていた。
<つづく>
【2000年8月記】