1.被爆都市
長崎も広島と同じく、被爆都市である。
ただ、広島と聞くと原爆を連想する私も、長崎は観光地の印象が先に立つ。長崎が、観光客誘致に力を入れた成果とも言えるだろう。
一方で、長崎への原爆投下が広島に続く2番目であったことから、どうしても被爆都市の象徴は広島となってしまい、長崎が陰に隠れがちなことも否めない。
そもそも、長崎への原爆投下は、当初の目標である小倉から悪天候のため変更されたものだし、いよいよアメリカ軍にとってどれだけ必要だったのか大いに疑問である。もちろん小倉ならいいというはずもなく、ただ一瞬のうちに奪われた10万人もの人々の命は何だったのか、ある意味広島以上にやりきれない思いが募る。
|
長崎の雨。(1979年撮影)
ネガにカビが生えていたわけ
ではないので、念のため。
|
九州には親戚がいることもあって、長崎へは何度か訪れている。
そのうち、昭和54年(1979年)8月に訪れたときの日記をまた転記してみよう。
長崎に来たら必ず行こうと思っていた原爆の地、びしょ濡れになって歩いた。
路面電車松山町から文化会館へ。そして忘れもしない3階のパネル。弟を背負い、両親を探す少年・・・
『黒い雨』が思い出されて、覚えず涙が出そうになり、あわててバルコニーに出た。
その後、中心地に行き、平和祈念像へ。平和など祈らなくても平和そのものという感じがした。
どこでも見かける記念写真の人々、俺ももし一人じゃなかったら、「はい、前に立って」なんて写真を撮っていたことだろう。それが平和だ。無理に祈らなくてもこれが平和なのだ!
|
思案橋近くの花屋の店先にて。
|
と、転記しておきながら、誤解を招きそうなことに気付き、少々言い訳を。
上の日記は、平和を祈ることや、祈念像が無意味だと言っているのではなく、和気あいあいと記念写真を撮り合う観光客を見て、こういう姿を大事にしていくことが、平和を守るということではないかと思ったのである。
さて、どうしても肩に力が入ってしまう原爆のことはここまでにして、次ページからは路面電車のことにふれていこう。
【2000年8月記】