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翌朝、釧路からバスでユースへ。熱いお茶をいただき、太平洋炭鉱へ。
その時のことはまたの機会に。その晩、ユースで流氷が来ていると聞き、早速翌日、釧網線で出発した。斜里を発車すると右手一面に流氷が広がった。ただただ まっしろ であった。浜小清水で下車し、浜へ出てみた。
・・・・・・・・・・。いくら耳をすませても何も聞こえない。静寂に圧倒されてしまった。1ヶ所流氷のすきまに淡く青空色に凍った海が見えた。それはまるで異次元空間への入口のようだ。
流氷沿いに走る列車を撮ろうと1時間ほど歩き回り、小さな橋にたどり着いた。寒いので手ぬぐいを西部劇のギャングのごとく顔にまき、列車を待った。
カシャ、シャッターを切り、客車に目をやると、乗客と目が合った。何やってんだあのアホは、という目であった。確かに自分はこんなところで何してんだろうと思うと空しさがこみあげ、自分の足跡しかない道を引き返した。
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南大夕張にて
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網走に出て、ここから夜行急行『大雪10号』に乗り、岩見沢へ。翌朝、室蘭本線の始発に乗り、追分を経て夕張線で清水沢へ。
三菱石炭鉱業鉄道のストーブ列車に乗るのである。
発車まで1時間あったので、3軸ボギー車のオハニ6の写真を撮っていた。
なんと、HBC(北海道放送?)が取材に来ていたが、なんて放送局とは横暴なのだろう。ストーブをかきまわして煙を出してくれ、発車のシーンを撮りたいから発車させてくれ(!)と当たり前のような顔をして頼んでいる。
三菱側もTVには弱いのか、ちゃんと列車を発車させ、またバックして戻ってきた。
さて、発車の時刻となった。お客は?お客は・・・・・? 地元のおっさんと鉄道ファンと私のたった3人。HBCも乗りこんできたが、いささか拍子抜けの様子。ストーブの前に集まって下さいというので、しかたなくくそ暑いストーブのところへ行くと、何の打ち合わせもなく、いきなりカメラを向けられ、おっさんにニュッとマイクが出され、インタビューが始まった。
いやあ、そのおっさんの驚いたの驚かないの、ストーブの暑さと冷や汗で玉の汗。こっちにおハチがまわってきた。いつもテレビのインタビューを見ていて、なんでみんなカメラを見ないのだろうと思っていたが、よーくわかった、そらおそろしくてカメラなど見れないのだ。しかし、やった、TVに映ったのだ、有名になれたのだ。
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HBCの取材風景
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それにしてもHBCの思惑がすべてはずれてしまい、おかしかった。おっさんに
「昔はストーブの上でイカを焼いたりしたそうですね」
「いや、私ゃ最近来たもんで」
車掌に、
「もう車掌になられて何年くらいですか」(きっと20年とか30年という答えを期待したのであろうが)
「5年です」
そんなこんなで南大夕張(地元では南部と呼ばれていた)に着いた。1日中写真を撮り、帰りの列車に乗ると、またお客は3人。車掌も同じ、あのおっさんもいた。「今朝はご苦労様」とお互い笑い合った。
ところで、このおっさんの仕事は坑木(坑道を支える木)を切る、のこぎりの目立て職人だそうで、炭鉱にもいろいろな職業が関係するものだと思う。
これで北海道の駆け足旅行も終わりであるが、この後、青函で1泊し、津軽鉄道へ向かった。
青森から特急『白鳥』なんぞに乗り弘前へ。しっかり検札につかまり、たった37.4Kmに800円も払った。弘前では五能線のキハ40の前にしっかりと駅員がいて、ちゃんと五能線の切符を買って来いと言う。ダブルパンチには参った。
しかし、津軽鉄道ストーブ列車。私は日本に2つしかないストーブ列車にたて続けに乗ったということでずいぶん興奮していた。
ただ時間がなかったので早々に引き上げ、一旦青森に戻り、特急『はつかり』で春合宿へ参加すべく仙台へ向かった。
(どうしても3枚におさえたかったのであわただしくなりました。すんません)
【昭和55年5月発行キロポスト第87号】
改めて読みなおすと、原稿用紙の枚数の関係もあって、北海道と題しながら、
北海道に着くまでが長くて、後は駆け足の紀行文になっています。
このときは、昭和55年2月14日(バレンタインデーなど縁のない話)から
20日まで、本文にも書いたとおり初めての北海道で、当時の日記には、
川が全部凍っているとか、機関車をつないでいないのに客車にスチームが
入っている!とか、見るものすべて珍しいという感じで書かれています。
それでも、財政状況が厳しく、軟弱鉄ちゃんにしては珍しく、6泊のうち、
釧路のユース2泊以外はすべて車(船)中泊で、北海道最後の日の日記は、
どうでもいいからゆっくりふとんで寝たいとの走り書きで終わっていました。