『ちょっと古い鉄道のお話』とそんまんまの銘を打っている私が言うのもおこがましいが、『鉄道模型趣味』というやはりそのまんまの鉄道模型雑誌、1974年12月号に、関東鉄道鉾田線のキハ42202の写真が掲載されていた。
戦前の昭和10年代、流線形の鉄道車両が流行し、国鉄の蒸気機関車
C53、
C55や電気機関車
EF55、さらに電車では
モハ52などが続々登場した。
ただ、流線形と言っても当時のスピードでは大した効果はなく、まさしくデザインの流行と言え、それがために使い勝手も悪かったのだろう、製造数は少なかった。でも、やはり流線形というスタイルに希少性もあいまって、鉄道ファンには根強い人気がある。
私自身、最新の700系新幹線のような究極の流線形にはない、その頃のほのぼのとした流線形に魅力を感じるひとりである。
キハ42202は、そんなほのぼの流線形流行時につくられた気動車で、『鉄道模型趣味』の記事を見て、いいなあ、一度見てみたいと思ったものだ。記事によれば、元は東京横浜電鉄のもので、晩年は関東鉄道で過ごし、廃車されたように書かれていて、現地へ行っても解体されているかなとも思ったが、とにかく行ってみることにした。
前後したが、関東鉄道鉾田線は、茨城県のJR常磐線石岡駅から鉾田まで27.2Kmのローカル私鉄だ。
もともと、1924年(大正13年)に鹿島参宮鉄道として開業し、1965年(昭和40年)、常総筑波鉄道と合併、総延長120Km以上の一大非電化私鉄、関東鉄道となったが、1979年(昭和54年)、再度関東鉄道(水海道線、竜ケ崎線)、筑波鉄道、そしてこの鹿島鉄道と再度分割され、現在に至っている。
ちなみに分割された当時、最終的に関東鉄道だけ残し、筑波鉄道、鹿島鉄道はいずれ廃止するために切り捨てられたように感じられたが、案の定、筑波鉄道は1987年(昭和62年)廃止されてしまった。筑波鉄道より失礼ながらさらにローカル色の強い鹿島鉄道が残っているのは、航空自衛隊百里基地の燃料輸送のためだということを聞いた。
前置きが長くなった。というのも、このときのメモは全くなく、正直、ほとんど記憶がない。このままではあっという間に終わってしまうため、前置きでごまかしたのが本当のところ。何か書き残してたものはないか改めて探してみると、高校時代の鉄道研究会の会誌に、ほんの数行書いた雑文があった。とりあえず、その雑文で思い出せた範囲で書いてみよう。
|
見事な?切妻キハ651と
キハ431の交換。桃浦にて。
|
私が初めて今の鹿島鉄道に行ったのは、1975年(昭和50年)12月、まだ関東鉄道と呼んでいた頃である。
早朝の常磐線に乗り、同じ関東鉄道の竜ケ崎線(佐貫〜竜ケ崎)に寄ってから石岡に向かった。
石岡では車庫の片隅にキハ42202が見え、ああ良かった残っていたと思いながらも、一旦キハ651に乗り鉾田線に入る。
キハ651の元番はキハ42201、ということは流線形の気動車であったが、車体だけ更新され、流線形とは正反対のいかにも安っぽい切妻になってしまっていた。
(これも『鉄道模型趣味』の記事と思っていたが、読み返してみると書いていない。何で読んだのだろう?)
石岡で自分が乗る気動車がキハ651とわかったとき、正直言うとがっかりしたのを覚えている。
それでも、安上がり更新のおかげで、駆動系はいわゆる
機械式のまま改造されておらず、運転手さんがギアチェンジする姿を運転台のすぐ後ろから興味深く見ていた。この部分だけ高校時代の雑文を原文のまま引用してみる。
クラッチを踏み、ギヤーチェンジをする度に、まるで初心者の運転する自動車のようにスピードがガクリとおちる。運転手がチェンジレバーをガチャガチャ動かしているのを尻目に、気動車は走るのをやめてしまいそうだ。そんなころ、ギヤーは入り、再びスピードを上げ始める。そんなキハ651。
鉾田線は霞ヶ浦をかすめるように走る。桃浦〜浜駅付近が最も霞ヶ浦に近そうだと事前に地図で調べていたので、まず桃浦駅で降りてみた。近くの丘にのぼり、霞ヶ浦をバックに列車を撮る。鉾田線は霞ヶ浦の北側、ということは完全な逆光になるが、キラキラ光る湖面と、鈍く輪郭をにじませた気動車の取りあわせは印象的な光景であった。
|
今回写真を焼いてみて改めて思った。
で、でかい。
|
次は浜駅へ向かうが、思ったより霞ヶ浦から離れてしまい、ここではうまく写真を撮れなかった。それより駅のすぐ横に巨大な木造倉庫があって、その頃鉄道模型を作りたいと思っていた私は、そちらに興味を持った。この倉庫を模型化してレイアウトに置いたら、やっぱり大きすぎるだろうなあなどと思いながら、ながめていた。
さらにここから玉造町駅まで列車に乗り、そこで鉾田まで行くのは断念、引き返す。石岡の車庫に寄る時間がなくなりそうだったのと、鉾田線が気に入ったので、またすぐ来ることになるからその時に鉾田まで行こうと思ったのである。
石岡に戻り、車庫を訪ねる。当時でも珍しいいわゆるキハ04型の古い気動車が並んでいる。ただ、すべて休車であった。
そしてキハ42202。片隅に追いやられ、少し痛みも出ていて、かろうじて解体は免れているという感じであった。このまま朽ちさせるのではなく、何とか復活させることはできないのだろうかと思ったものだ。
当時、ちょっと感傷的になって、もう永遠に僕を乗せてくれないのかと問いかけながら(ちょっとキザったらしい)気動車達を見ていた。
冬の陽は短い、石岡の車庫を後に常磐線で帰路に就くころには、もう真っ暗になっていた。
【1999年4月記】