2年半後の1980年2月、北海道旅行の帰りに津軽鉄道へ立ち寄る。
撮り鉄と言いながら、初っ端の写真は列車ではなく駅へ向かう女子高生だ。また女子高生目当てかと呆れられそうだが、まあ確かにそれは否定しないものの、女子高生の後ろに続く数珠つなぎの通勤・通学客の列に驚いてカメラを向けたのである。失礼ながら津軽飯詰で、これほど大勢の通勤・通学客に出会うとは思ってもいなかった。
津軽飯詰駅に近づく上り客車列車。
中途半端な構図なのは、この列車に乗るつもりで、すぐに駅へ行ける場所で構えていたからだ。
写真で気づいたのだが、木製で風情のあったスノーシェルターは金属製に更新されている。
津軽飯詰駅で次々と乗客が乗り込む。
最後尾の客車のデッキには3人の女子高生の姿が見える。デッキでは寒かろうと思うのだが、乗車してみてわかった。車内は超満員で、これまた驚かされたのである。
そのころ津軽鉄道の年間輸送客数は約250万人とピークに達し、なるほど混雑もうなずける。それが最近では25万人程度と1/10まで落ち込んだそうで、厳しい現実を突きつけられる。こうした状況は津軽鉄道に限らず、全国のローカル線が抱える共通の問題だ。
五所川原に到着。早速折り返しの下り列車として機関車を付け替えるため、DD351が機回し線を走り抜けていく。
ホームには、客車から下車した大勢の乗客の列が続いている。左手には、ちょうど国鉄五能線の客車列車もやってきた。この列車に乗り換えて、弘前方面へ通勤・通学する人も多かったことだろう。
折り返しの下り列車も、学生たちでほぼ満席となった。
五農校前でほとんどの学生が下車、さらに津軽飯詰で多くの乗客が降りて車内は一転、がらんとしてしまった。特等席?のはずのストーブの前も空席だ。
翌1981年2月にも北海道旅行の合間に津軽鉄道を訪ねた。最後にそのときの写真を1枚。
この写真は年賀状にも使ったことがあり、受け取った撮り鉄とは縁のない会社の同僚から「やらせだろ」と言われたことがある。でも、知らないおばさんに声をかけてストーブの前に座ってもらい、車掌さんには石炭をくべるように頼む? さすがにそこまでの要領は持ち合わせていない。もちろん、津軽鉄道が演出したわけでもない。あくまで当時のストーブ列車の素の光景なのである。
【1976年7月〜1981年2月現地、2023年1月記】