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関東鉄道筑波線路線図
地図

 関東鉄道第2弾は筑波線。JR常磐線土浦から同じくJR水戸線岩瀬までの40.1Kmを結んでいた。大正7年、筑波鉄道として開業し、昭和40年、関東鉄道となったが、鉾田線の項でも触れたとおり昭和54年、筑波鉄道として再度独立し、残念ながら昭和62年、廃止されてしまった。

 筑波線には都合3回行ったのだが、初訪問は1976年(昭和51年)の9月、残暑の厳しい日であった。この時のことは大学鉄研部室備付けの『らくがき帳』に詳細に書いたのだが、もちろん手元にない。 そこで記憶に頼るのだが、覚えているのは、撮影のため沿線を歩いていたら、とにかく暑くて暑くてたまらず、それまでおじん臭くて敬遠していたオロナミンCを初めて飲んだことと、列車の撮影では筑波山をバックにすることばかり気にしていたが、ふと振り向くと一面の田んぼに稲穂が揺れていて、ああ、この風景のほうが絵になるなあと思ったこと、これくらいしかない。我ながらしょうもないことしか覚えていない。
 次に行ったのは、翌77年(昭和52年)10月、鉄研の見学会と称して新土浦の車庫をみんなで訪問したときである。ただ、この日の記憶も雨にたたられたということくらいしか残っていない。
 3回目は鉾田線再訪時、すなわち86年(昭和61年)4月に桜の写真を撮りに行ったのであるが、これまた記憶に乏しい。
常陸小田にて
常陸小田にて(昭和61年撮影)

 「おいおい、思い出話と称して何も思い出せていないじゃないか」というそしりを受けそう。
 そこで、77年の見学会用につくったパンフレットが残っているので、そのうち私が担当した沿線案内(前年の訪問時の印象を書いたもの)を転記してごまかすことにする。ただ、なにぶん内輪向なので、少々おふざけ気味なのが気がひけるが、当時を少しでも偲ぶことができたらと思う。
筑波鉄道沿線案内
 さて、早速、土浦から順にご紹介していきましょう。ただし、私のいい加減な記憶によってますので、その点お含みおきください。
 筑波線は常磐線と同じホームですので、即乗れるはずです。さて、気動車は発車するとしばらく常磐線と併走しますが、ぐぐっと左にカーブして車庫のある新土浦。ここで見学会をする訳ですが、それはとばして次は虫掛。もうあたりは田んぼと畑しかありません。でも注意して見てください。ホームに大きな木が植わっていて、いい感じです。他にもこういう駅は多く、筑波線の魅力と言えます。 次の坂田までは何もありません。坂田に着くと右手に坂田園芸という白い建物があって、一人で目立っています。
 常陸藤沢、田土部は覚えていないので省略して常陸小田。ここには小田城跡がありますが、つまらないので行かない方がいいでしょう。次の常陸北条は筑波町の中心で、構内もなかなか広々?としています。余談ですが、この駅の待合室にはテレビがありました。
 北条を発車すると、小さな山すそを縫うように右にカーブします。すると、ドバッと視界がひらけて「やった」と叫ぶのです。右手前方に筑波山がいるのです。この時には気動車は独り田んぼの中をゆくのです。そして左にカーブして筑波駅に着きます。
 一応、岩瀬まで紹介します。筑波からはずっと山沿いに走り、数駅を経て、沿線最大の町、真壁に着きます。ここは墓石の一大産地でもあり、どうせいつかは死ぬのですから早めに予約しておくのも一考です。 さて、右手には加波山事件で有名な加波山が見えてきますが、石切場がたくさんあって(もちろん墓石の)、無残な姿をさらしています。
 さあ、雨引に着けば、もう終点は間近。珍しく左手に山があり、こんもりとした繁みがいやらしいのです。そして気動車は左に右にカーブして岩瀬駅に着く訳です。お疲れ様。


 【1999年5月記】



筑波線は観光路線ということで、クロスシート車が重点的に配備されていました。
また、行楽シーズンには国鉄からの直通列車『筑波』が運転され、
ロッドの付いたレトロなディーゼル機関車、DD501が国鉄客車を牽く姿が有名でした。
鉄研の見学会も、『筑波』の運転日に合わせたはずなのですが、
車庫でDD501の写真を撮っているので、運休だったのでしょうか。
そう言えば、DD501は肝心のロッドが破損してしまったとか
聞いたような気もしますが、はっきりしたことは覚えていません。


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