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和気そして岡山
時間はまだ十分ある。
それで山陽本線和気駅に立ち寄った。大好きだった片上鉄道が接続していた駅である。廃止後に和気駅を訪れるのは初めてなので、大方30年ぶりだ。
駅に着いた頃から雨足が強くなり、そんな中、駅周囲を歩いてみるが、傘をさしてもほんの数分でずぶ濡れ。ほうほうの体で引き上げる。駅前でレンタサイクルも借りられるようなので、いつの日にか、片上鉄道の廃線跡を巡りたいと思っている。
和気から再び普通電車で岡山へ。路面電車の岡山電気軌道東山線に乗り換え、城下で下車。そこから少し歩けば目的地だ。
『シネマ・クレール丸の内』 予想どおりのこぢんまりとした映画館であった。
そう、もはや『KOTOKO』を上映中で、神戸にもっとも近い映画館は、ここしかなかったのだ。
上映は20時40分と遅い。会社の定時後に普通電車を乗継ぎ、和気駅に立ち寄っても、まだ早すぎた。いったん映画館を出て、何か口に入れようと店を探していると、また土砂降りに。いい加減、熱を冷ませと言わんばかりの雨に、あわててアーケードへ逃げ込む。
しばらくして映画館に戻ると、開演を待つ若い男性客が、びっくりしたようにこちらを見る。「こんなおっさんが『KOTOKO』を観るの?」という顔だ。そうだろう、こっちだって、なぜここまで駆り立てられるのか、わからないのだから。
予断を入れたくなかったので、映画のことは何も調べていない。PG12指定ということも知らなかった。やっぱり血が出るのだろうか。
<ここから映画の内容に触れるのでご注意>
乳飲み子の大二郎をかかえたCocco演じる琴子は、情緒不安定で、誰かが大二郎に危害を加えるのではないかと錯乱状態に陥る。
おかげで案の定、リストカットのシーンが何度も出てきて血まみれ。さらに『花柄』のビデオのような展開になりそうで、気を揉むが、それは避けられた。でも、なんとも激しい場面の連続である。
そんなシーンを観ているうちに、ある思いがこみ上げてきた。
途中、小説家の田中という男が出てきて、泣き叫ぶ琴子を「大丈夫、大丈夫、大丈夫」としっかりと抱きしめる。
まさにこれだ。琴子いやCoccoをしっかり抱きしめ、激しく波打つ心を鎮めたい、そういう思いにかられていたのだ。それが目の前で演じられて、不思議な感覚にとらわれる。
映画には疎いので、この小説家の田中を演じているのが、塚本晋也監督だと後で知った。
舞台挨拶の映像も後から観たが、「Coccoなのか琴子なのか曖昧」とコメントしていた監督自身、抱きしめているのは琴子ではなく、Coccoだったのではないか。もっと言えば、Coccoを抱きしめたい、いや誤解を招く表現なので言い換えると、Coccoの心を自らの手で鎮めたいから、監督自身が演じたのではないか。
もっと驚いたのが、琴子が田中の目の前で、歌うシーン。映画を観た後ではまさに後付けがましいが、これも『玻璃の花』のビデオを観ながら、夢想(妄想)していたことなのである。どこかでCoccoと知り合いになり、自分のために歌ってくれないかなあ。
いやあ、50過ぎのおっさんが考えることか?お恥ずかしい。
そのシーンも、塚本監督自らがカメラをもって撮ったそうだ。やはりこのときも琴子ではなく、Coccoとして見ていたに違いない。ちょっとずるいと言うか、うらやましい。
でも、田中は、琴子が保育園の父親参観日に連れていこうと思った瞬間に姿を消してしまった。やはり田中は幻影で、世俗的な参観日にはなじまず、琴子の意識から消えたのか。それとも、田中自身が、琴子に寄り添うのに疲れてしまったのか。それを監督がCoccoに感じてしまったのか・・・。
人と人が100%わかり合うことはあり得ない。所詮、人間はひとりだ。なんだか突き放した言い方なので、これも言い換えれば、独立した個と個という意味だ。
だからこそ、息子はひとりでもちゃんと立派に成長していた。それも母親を気遣うやさしい少年に。
ラストシーンで、やっと救われるのであった。
映画がはねた22時20分すぎ、路面電車も終わっているので、岡山駅まで歩く。私の心も鎮まったとみたのか、雨もやんでいる。
その時間、神戸へ帰る手立ては新幹線しか残っていない。新大阪行きの最終『みずほ608号』のゆったりしたシートにもたれていると、「やっとピークアウトしたかな」という思いに包まれるのであった。
余韻