私は後ろ向きな人間である。
アニメ『巨人の星』によれば、坂本竜馬は死ぬときには前のめりであることを信条としていたそうだが、私は後ろを振り向きながら死ぬであろう。
街中で、ぽつんと空いた更地を見つけると、「そこに何が建つのだろう」ではなく、「かつてどんな人たちがどんな暮らしをしていたのだろう」と思いをめぐらせてしまう。
のっけから何を言っているのか。
いや、過去を振り返り、ノスタルジックな気分になることは誰にでもあるだろう。
私の場合は、それが他人より少し強いのかも知れない。
そんな私にうってつけの仕事(とも言いがたいが)が舞い込んできた。
昨年(2008年)秋のこと、某国立大学の助教から会社に1本の電話が入ったのである。
その助教は、ある建築家(仮にMとしておこう)の研究をしており、設計はしたものの、諸事情で建築には至らなかった建物を調べているとのこと。
「そのMが、昭和11年に設計した図面に、御社の社名を冠した『○○会館』があるのですが、ご存知ありませんか」
なにせ戦前の話である、○○会館など聞いたこともない。なによりMといえば、建築には門外漢の私でも知っている著名な建築家だ。そのMが、うちの会社の建物を設計するとは、にわかには信じがたいことであった。
その旨伝え、念のため建築予定場所を尋ねると、残っているのは建物の配置図や平面図、立面図だけで、肝心の所在を示す図面がないという。
そもそも会社名の○○は創業者の姓、それも地名にもある、ありふれたものだ。○○会館だからといって、会社とは何も関係ないかも知れない。
「私もそう思って、同じ名前の○○市で調べたりしたのですが、該当がありませんでした。
同時期に神戸で別の建物も設計していますから、神戸市内で間違いないと思います。敷地の形に特徴があるので、図面を見たら、お分かりになるかも知れません」
そして数日後、図面が送られてきた。
確かに敷地は独特の形で、緩やかに北から南に下り傾斜になっているのも、まあ神戸の地形に合うといえば合う。
でも、その形に見覚えはなかった。さらに平面図を見て唖然とする。
地下1階地上3階建の延700坪ほどの建物は、1階がエントランスと食堂である。
2階の過半をクラブ室と書かれた部屋が占めるが、実際は3階まで吹き抜けのホール、演舞場だ。場内には噴水まで設けられ、ホール隅の螺旋階段を上ると、ベッドルームがいくつか並び、宿泊もできる豪華絢爛さ。
クラブ室の隣は集会室とあるが、やはり3階まで吹き抜けで、その片隅に映写機室という小部屋を見つけ、「あっ映画館なんだ!」と知る。
地下に目を転じると、バーとビリヤード場、要はプールバーだ。
・・・おいおい、これはどこの御殿だ?
明治時代の鹿鳴館じゃあるまいし、とても一民間企業の施設とは思えん。いよいよ○○会館は、○○違いだ、という気になるが、助教の考えは変わらない。
それなら、まずは場所を特定すれば、誰の土地かはっきりするだろうと、会社の帰りに神戸中央図書館に寄り、戦前の神戸市の地図で該当しそうな地形を探す。しかし、閉館まで3時間近く粘っても見つからなかった。
それからまた数日経ったころ、助教から「場所がわかりました。確かに御社の土地です」との連絡が入った。
「どうやって調べたんですか?」
「神戸中央図書館に戦前の地図があるんですよ」
「!」
「それを丹念に当たったら、ぴったり合う土地があって、そのあと法務局で調べたら、確かに当時の名義は○○株式会社になっていました」
やられた!という思いが不謹慎ながら最初に頭をよぎる。まったく同じアプローチをしながら、私は見つけられず、かつ私の専門分野?であるはずの法務局まで先を越されてしまった。
やはり、「絶対にある」という前のめりの姿勢と、半信半疑の後向きな姿勢との違いが結果に表れたか。
それはさておき、住所(地番)を尋ねると、なんとなく聞き覚えのある住所である。
早速、倉庫の保存文書を探すと、まさにその住所を記したファイルが出てきたのであった。
そのファイルには、大正時代に土地を購入したときの契約書や、簡単な図面が入っていて、確かに敷地の形は合うが、残念ながら○○会館の資料は何も残されていない。
ただ、ファイルに、太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年2月に、地元の兵庫県に土地を貸すことを定めた契約書があった。賃料は無償なので、「使用貸借契約書」と銘打たれている。
昔も今も契約書のスタイルはあまり変わらず、一般的には頭書というか前書きに、
『○○株式会社と兵庫県とは、**の土地について、下記のとおり使用貸借契約を締結する。』
という感じで始まるのだが、見つかった使用貸借契約の前書きは、異様に長い。
○○株式会社はその所有に係る**所在土地を社用建物建築の目的を以って所有し、地上建物の設計中なりしに、時局下本建築を許さざるに因り、止むを得ずこれを空地と為せるものなるところ、兵庫県より該地上に臨時のバラック式建物を建築したき旨申出あり(以下略)
くどいばかりの前書きである。おまけに本文の契約条文でも、すぐに返せるよう臨時のバラックに限定すると駄目押しして、あくまで『社用建物』建築までの一時的な貸与を前提としている。
また、少々専門風を吹かせれば、そもそも相手がお役所だから無償にしたのではなく、使用貸借は借主に借地権などの権利が生じないので、いつでも明け渡してもらえるとの思惑があったに違いない。
この契約書だけからでも、『社用建物』の建築は本気だったことが伺える。その『社用建物』こそ、○○会館であろう。
先人の意気込みに、ファイルを一旦デスクに置き、しばし感慨無量の思いに浸る。
改めてMの設計図面を開く。先人たちは、これを囲んでどんな議論をしていたのだろう。あれこれと意見を交わす声が聞こえてくるような気がする。
そして、Mは、どんな思いでこの答え(設計)を導き出したのだろう。
12月に入ったころ、助教から成果発表会の案内が届いた。
早速伺ったのはもちろんである。
展示会は、Mが設計しながら、建築できなかったプロジェクト(アンビルトプロジェクト)10数件が、図面だけでなく、学生の手で模型化されて展示されていた。
年代順に並んだ展示を、順に助教に案内していただく。さすが著名な建築家だけあって、どのプロジェクトも興味深い。実現しなかったことがそれに拍車をかける。
いよいよ○○会館のコーナーである。
さすが立体的な模型のほうが、平面的な図面より実感として捉えやすく、思わずじっくり見入ってしまう。
意外にコンパクトというのが第一印象だが、逆にそれは、様々なアイデアをぎゅっと凝縮した結果のようにも見える。それだけに、自分の会社というひいき目もあるが、他のプロジェクトに比べて洗練度も高く、竣工していれば、このままのイメージでできあがったのではないか、そう思うのであった。
しかし、着工すらできなかった。いや仮に竣工していたとしても、その後の会社の浮沈を考えると、これだけの施設を維持できず、人手に渡ってしまったかも知れない。アンビルトだったからこそ、今でも○○会館と言えるのかも・・・いやいやそんな後ろ向きなことは考えず、ここはひとつ前向きに、俺が社長になったらこのプロジェクトを再開させてやろう・・・前向きというより最後は妄想になってしまったが、模型を前に、あれこれと思いに耽るのであった。
さて、この土地の行く末はどうなったのであろうか。
ファイルにはそれを示す書類も残されていた。(何だかNHK『その時 歴史は動いた』のエンディングの言い回しみたい)
それによると、兵庫県の倉庫は、1945(昭和20)年6月5日の神戸大空襲で焼失、そのまま終戦後の1947(昭和22)年、兵庫県へ売却してしまったのである。
おそらく、戦後の疲弊した会社財政のため、換金したというのが実態だろう。
先日、その場所に行ってみた。今も兵庫県の所有で、立派な高層建築物が建っている。
状況は一変し、当時を偲ぶよすがは、南に緩やかに下る傾斜の地形だけだ。県の建物も、北側入口は道路とツライチながら、南側の入口は道路から階段で上るようになっている。
Mの設計から70年余、そこに○○会館のイメージを重ね合わせるのは至難の技だ。
現地に佇むと、先人の夢破れた無念、世の移ろいの無常さだけが胸に迫るのであった。
※国立大学の助教や、著名な建築家を匿名、仮名にして、たいへん失礼なこととは思うが、ご容赦願いたい。
【2009年2月記】