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■上野原〜勝沼
翌1976(昭和51)年2月、中央線の快速区間外、つまり高尾以西へ出かけてみた。
朝一番にまず向かったのは、高尾から3つ目の上野原。
なぜ上野原で下車したのか、はっきりとは思い出せないのだが、当時通っていた高校の地学の授業で、「上野原は河岸段丘の典型例だ」と教えられたことが、大きな動機になっているはずだ。
駅に降りてみると、出口は跨線橋の上で、町はさらに坂道を登った先にある。なるほどまさに河岸段丘である。
町までは距離があるので、『駅−町』とシンプルな行き先表示を掲げたバスが駅前に停まっていたような気がするのだが、ネットで調べてみると、行き先は様々で、本当にそんなバスがあったのか、いささか自信がない。
いずれにしても上野原駅は、河岸段丘の真っ只中にいる、と実感できる場所であった。
ただ、朝早かったこともあって、靄がかかってしまい、ここではこの115系の写真を含め、3枚しか撮っていない。
次に向かったのは、隣の四方津。
これまたなぜ四方津に行ったのか、思い出せない。
もしかしたら、前年に交友社から発行された『電気機関車 快走』で、『四方津付近のコンクリートアーチ橋はよい構図が考えられる』とあったせいかも知れない。
でも、ネガを見ても、そのアーチ橋まで行った形跡はなく、残っているのは安易にホームから撮った数葉の写真のみであった。
左の写真はその中から、四方津駅に進入するEF64の上り重連貨物。
そして、この日のメインイベント、勝沼(現在の勝沼ぶどう郷)である。
と、えらそうに書いているが、単に、この日のネガをチェックしたら、勝沼の写真が一番多いので、そう判断したまでのこと。なぜ勝沼をメインにしたのか、相変わらず思い出せないのである。
中央線の下り列車で、勝沼の手前の大日影トンネルを抜けて、眼下に甲府盆地が広がる車窓は今も大好きなのだが、当時からそう思っていたのだろうか。
何はともあれ、勝沼駅で下車。乗ってきた71系が走り去っていく。
ここまで『ないないづくし』で、何も思い出せていないじゃないか、というそしりを受けそうなので、はっきりと覚えていることを記して、少しは名誉を挽回しよう。
突然だが、杉田二郎という歌手をご存知だろう。1970年に大ヒットしたジローズの『戦争を知らない子供たち』で有名だが、その後ソロになってからの活動は、あまり目立たなくなってしまった。
ところが、1975年ごろから、『男どうし』『積木』『君住む街』『僕たちの箱舟』とたて続けに佳作を発表したのである。
個人的に『中期4連作』と勝手に名づけているこれらの曲は、結構ヒットした『男どうし』だけでなく、そのほかの曲もなかなか粒ぞろいだ。ご本人に聞いたわけではないが、脂の乗った時期だったように思う。
ちょうど中央線を訪れた1976年の2月は、連作2曲目の『積木』が発売されたばかりで、実は撮影の道中、ずっと口ずさんでいたのである。
小さな積木を積上げるように、僕たちふたりは生きてきた・・・
疲れるだけの議論の末に積木の城は崩れた
止めたつもりの古い時計は動き続けていたのさ・・・
今思えば切なく哀しい歌詞だ。これを口ずさみながら、ひとり撮影していたのか・・・なんだか淋しい。
でも、おかげで、今でもこの曲を聴くと、四方津駅の寒いホームでぼんやり列車を待っていたことや、勝沼のぶどう畑を徘徊したことが、記憶というより感覚という形で蘇ってくるのである。
と、まず人様からは共感を得られそうもない話を長々書いて、名誉挽回どころか、まさによく誤用される汚名挽回か。