回顧編2/2
■ベランダからの光景
毎日、当たり前のように、ベランダから多摩川を渡る小田急を眺めていたのであるが、1961年1月の朝、大変なことが起きてしまった。
多摩川東岸の堤防上の踏切で、警報を無視したダンプカーと4両編成の2400系が衝突し、脱線した1〜2両目が多摩川へ転落してしまったのである。
と、見たように書いてしまった・・・いや、確かに見たはずなのである。
後に、母親との会話で、たまたまその事故のことになると、興奮気味に
「朝、窓を開けたら電車が川に落ちてたんだから、大騒ぎだったわ。あなたも見たでしょうが」
と責められたので、たぶん見たことに間違いはないのだろう。
でも、考えてみたら、1961年1月といえば、まだ2歳半である。その頃の記憶を「見たでしょうが」と責めるのは酷な話で、結局、自分の記憶なのか、新聞記事などの写真の記憶なのかあいまいになってしまっている。
そんな衝突事故が起きた堤防の踏切は、これを契機に車両進入禁止となった。それは今も続いている。
多摩川東岸の踏切は、ポールが立てられ、事故から40年たった今でも車両進入禁止だ。
(2001年撮影)
■狛江駅
小さい頃から小学校に上がるのを楽しみにしていた。学校で早く勉強したいと向学心にあふれる子供だった・・・わけではない。
当時、小学校は狛江駅近くの狛江第一小学校しかなかったので、和泉多摩川から1駅ではあるが、電車通学できるからであった。もっとも、駅間距離は数百mしかないから、歩けない距離ではなかったのも事実である。(現に歩いていた子もいたように思う)
ある日、学校で、狛江駅の駅員に使い古しの切符をもらったと見せびらかしている子がいた。自分も、ということで、おずおずと狛江駅で駅員に頼んでみると、あっさりと紙袋にバサバサと入れて渡してくれた。
これで電車ごっこにハクがついたのはもちろんである。子供の遊びとはいえ、より本物らしさを求めるのは、いつの時代も同じだ。
使い古しの切符とはいえ、今は簡単にもらえるものではなかろう。大手私鉄の小田急も、のんびりした時代だったのだ。ただ、せっかくもらった切符も、遊び飽きて捨ててしまったのか、1枚も手元に残っていないのが、少々残念なところである。
もうひとつ、狛江駅で印象に残っているのが、新聞配達車だ。何かの都合で下校時間が遅くなった日、狛江駅で電車を待っていると、荷物電車がやってきて、職員が新聞を下ろしている。というより、ぼんぼん、ぼんぼんと、放り投げると言ったほうがいいくらいの荒業を、あっけに取られて見ていたのであった。
ただ、この記憶には我ながら少々疑問があった。というのも、駅に売店があったかは覚えていないが、いずれにしても販売用にしては、新聞の量がはんぱではなく、何か記憶違いをしているように思えてきたのだ。
その疑問は、『鉄道ピクトリアル』で、都心で印刷した宅配用の新聞を電車で運んでいたという記事を読んで氷解した。宅配の新聞はトラックで運ぶのが当たり前と思い込んでいたのだが、それならあの大量の新聞は納得できる。どうやら記憶違いではなかったようで、やれやれといった心境である。
荷物電車デニ1300形。(1978年撮影)
【2001年11月記】