1. 立飛線
立川から立川飛行場(現昭和記念公園)までの約2Kmを結んでいたもので、引込線と言ってはちょっと失礼か。
おそらく戦時中の軍用物資輸送が目的であったのだろうが、最後は立飛企業という民間の専用線になっていた。
沿線には雑木林や畑など武蔵野の面影が色濃く残され、東京にありながらローカル線ムード満点の鉄道であった。
そんな中を、不定期ではあったが、だいたい1日1往復、貨車1〜2両編成の短い貨物列車が走っていた。
牽引する機関車は、今の実家に越してきた昭和40年頃は既にディーゼル機関車のDD13であったが、近所の子は「この前まではデゴイチだったんだよ」と言っていた。もちろん、かつては蒸気機関車だったことは間違いないだろうが、デゴイチというのは蒸気機関車の代名詞に使われていたので、本当にD51だったかどうかは定かではない。
本数が少ないので、沿線の住民も道路代わりに使っており、かく言う私も立川方面の商店街まで線路を歩き、駄菓子屋でサンダーバードのブロマイドを買ったり、5円くじをしたりしたものだ。
そんな鉄道だから、いざ運転というときは、DD13に見張り役の職員を数人乗せて最徐行で走り、踏切では列車が一旦停止して、職員がバタバタと降り立っては人間遮断機?となっていた。
以前は同じ東京狛江に住んでいて、毎日多摩川を渡る小田急電車を目にしていたのだが、小田急電車と立飛線とのギャップは大きく、沿線の風景ともあいまって、子供心に不思議な鉄道という印象を強く植え付けられた。
ただ、あまりに身近にありすぎて、そのうちにちゃんと記録を残そうと思っているうち月日は流れ、昭和51年のある日、新聞を読むと「立飛線廃止」という記事が飛び込んできた。
しまった、と思っても後の祭り、最後の思い出にとこのとき初めて全線を歩いてみたが、キロポストなどの標識が残るぐらいで、線路はほとんど撤去され、踏切には『この鉄道は廃止しました』という看板ばかり、『不思議な鉄道』が消えてしまうことを痛感させられただけであった。そうなると何とか標識などの断片でも手元に残したいという気持ちが募り、思い切って立飛企業に電話してみた。
「あのォ、立飛線の標識などを記念にいただきたいんですが」
「もう全部スクラップ屋に処分を頼んじゃったから、こちらへ来られても無理ですね」
「スクラップということは、捨てたということですよね」
「そうですが」
「それなら、自分で適当に持っていってもいいでしょうか」
「はあ、まあそういうことならいいですけど」
ということで早速飛び出す。目に入るもの全部持って帰りたかったが、結局キロポスト1本(それでも無茶苦茶重くて弟を連れ出して2人がかりで持ち帰った)と『自衛隊表通り踏切』と書かれた踏切の名称板?、同じく踏切の『とまれみよ』の看板を持ち帰った。ちゃんと許可をもらったとはいえ、白昼堂々では気がひけるので、夜陰に乗じてペンチなどで取り外す。
でも、時折通る車のヘッドライトに照らされて浮かび上がる姿は、かえって怪しい雰囲気だったろう。
さらに月日は流れ、『自衛隊表通り踏切』や『とまれみよ』の看板は今でも実家の壁に飾って?ある。(キロポストは虫食いにあってやむなく処分)
そして、子供を連れて実家に帰ったおり、DD13を見つめていた頃の自分と同じ年頃になった子供たちが、今は遊歩道として再整備された立飛線跡を走り回る姿を見るにつけ、改めて月日の流れを感じざるを得ないのであった。
(写真撮影は廃止前が1976年2月、廃止後は同年12月ごろ)