■ F地点(大中遺跡付近)
別府鉄道路線図
2車線の道路になった別府鉄道跡は、ここで突然終わり、『であいのみち』という遊歩道にバトンタッチされる。 遊歩道に入るとすぐ『播磨町郷土資料館』があり、裏手に別府鉄道の車両が保存されている。簡単に見られるつもりで来たのだが、ゲートで閉ざされている。時刻は18時近い、もう入れないかと資料館の正面玄関にまわると、開館時間は10時から16時30分と掲示されており、とうに閉館していた。
ぷつっとやる気が切れるのを感じた。
と同時にどっと疲れが出て、土山までゆくのを断念、車を置いてある別府へと引き返す。つづきは明日だ。
【F地点 大中遺跡付近(土山方を望む)】
別府鉄道跡はこんもりした繁みの中、
『であいのみち』となって残る。
一旦切れた気力は戻らない。どうにか川崎車両工場の前まで戻ったが、そこでへたりこんでタクシーを待つ。しかし、30分待っても1台も通らず、予定どおり土山まで歩いてタクシーにすればよかったと後悔の念がよぎる。
時計を見ると、もう19時近い。ふと、D地点の貨車の道路向かいに中華料理店があったのを思い出し、よし先に腹ごしらえだ。『民生 東加古川店』、『民生』といったら神戸でも有名な店だが、こんなところに支店があるとは知らなかった。
注文した好物の酢豚とライスがテーブルに並ぶと、いかにも淋しい。まわりは夏休みの土曜日とあって、家族連れがわいわい食事をとっている。酢豚はおいしかったのだが、やっぱり中華料理はたくさんの皿をみんなで取り分けて食べるのがいい。
食事を終え、元気も戻ったところで、待ち客も出始めている店を早々に退散し、なぜかやたらコウモリの乱舞する不気味な夕暮れの別府鉄道跡をひたすら別府へと歩いたのであった。
■ G地点(播磨町郷土資料館)
【G地点 播磨町郷土資料館】
同館に展示されたDC302とハフ5。
翌日曜日、カミさんはまだ帰ってこない。
念のため繰り返すが、カミさんに逃げられたわけでは決してない。
今朝は車を大中遺跡の駐車場に置き、10時過ぎには播磨町郷土資料館に着いた。保存車両のゲートが閉められたままなので、係の人に頼んで開けてもらう。DC302とハフ5はさらにフェンスの中に安置されていた。
頼めば鍵を開けて車内まで入れるそうで、そこまで厳重にしなくてもとも思うが、この後行った野口線跡のキハ2の惨状を見ると、これくらいしないと維持できないのが実態であろう、ちょっとやり切れなさが残る。
■ H地点(喜瀬川)
【H地点 喜瀬川(右が別府港側)】
鉄道時代の土山側の橋台は、
もう少し手前だったようだ。
定番撮影ポイントだった場所であるが、橋はもちろんのこと、河川も徹底的に改修され、昔の面影は何もない。
それにしても改修後の河川は、いかにも人工的で面白味に欠ける。もう少し時間が経てば落ち着くのかも知れないが。
■ I地点(レールの残る踏切跡)
【I地点 レールの残る踏切跡】
この踏切が『鉄道廃線跡を歩く』
に紹介されている。
この付近の2箇所の踏切跡にレールが残されている。このうち1箇所は『鉄道廃線跡を歩く』にも紹介されている。
鉄道の雰囲気が完全に払拭された遊歩道を歩き続けて欲求不満になりかけた頃、こうしてレールが残っているのを見ると、オアシスのように感じる。(そう感じるのは鉄ちゃんだけか)
I地点から土山寄りの踏切跡にも
レールが残る。
線路跡はこの先右へカーブして、
土山駅に至る。
■ J地点(土山駅)
【J地点 土山駅】
I地点から緩くカーブして、バスの発着場になった土山駅跡に到着。がらんとした空地はバス発着場でも持て余し気味の風情だ。
ここからUターン。まだ午前中だというのに厳しい陽射しで、もうバテてしまい、木陰のベンチでちょっと一服してから大中遺跡の駐車場へ車を取りに戻ったのであった。
【1999年7月24〜25日現地、同年8月記】