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タイトル
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 カミさんが子供を連れて実家に帰った。
 いや、別に夫婦喧嘩をしたわけではない。
 ・・・どこかで書いたようなせりふ。そう、1999年7月、別府鉄道土山線跡に行ったときの書き出しである。そして迎えた今年2001年の夏休みも恒例の夫婦喧嘩、いや違う違う(本当に違う)、2〜3日、お互いに羽を伸ばす時期となった。
 で、例によって私は廃線跡めぐり。土山線跡から丸2年、カミさんが実家に帰っている間に『若い娘と温泉旅行』は実現していない。相変わらず進歩がない。

 前日、久しぶりの鉄ちゃんだと、準備のためバッグからカメラを取り出してみると、ボディに何やらまだら模様が・・・ゲゲッ、カビ!情けない気分で丹念にふき取る。おまけに冷蔵庫のフィルムは賞味期限切れ。考えてみたら、一眼レフカメラを使うのは、去年の路面電車の取材以来で、1年以上のブランクがある。月日の流れは早いものである、などと自分のずぼらさを棚に上げてもしかたない。
 まあ、期限切れといっても生ものではないし、大丈夫だろうと気を取りなおしてカメラに装填し、何とか準備完了。
 そして迎えた当日。暑い。
 今年の夏の暑さは尋常ではない。こんな中、何を好んで廃線跡など歩かなくちゃいけないのか、そんな思いが頭をよぎる。意を決して、実家に帰るカミさんらを車で駅まで送り、その足で向かうことにする。カメラバックをしょった私の姿を見て、「この暑い中、ご苦労様なこと」と言うカミさんの憐れみを帯びた目が印象的であった。

A地点(兵庫駅周辺)
 

A地点
高層住宅の並ぶキャナルタウン。
日陰で暗い写真になってしまった。

 さすがに日の高いうちは暑すぎるので、車を一旦神戸駅近くの駐車場に置いて、少々時間をつぶし、16時すぎの電車で兵庫へ向かう。
 ホームの階段を下りると、和田岬線乗場がある。神戸市の地下鉄海岸線が開業(今年7月7日)したら、てっきり廃止かと思っていたのだが、何の何の、地下鉄開業に先駆けて7月1日に電化までして対抗意欲満々である。
 その和田岬線が発着する兵庫駅の浜側(南側)は、かつては貨物ヤードが広がり、兵庫港貨物線もここから出ていたのである。それが今はキャナルタウンとして再開発され、高層住宅が建ち並ぶ姿に昔の面影はない。キャナルタウンという名のとおり、兵庫周辺には運河が多い。それにちなんで高層住宅街の中にもミニ運河とも言えそうなものがしつらえられている。ただ、いかにもわざとらしくて、今ひとつという印象だ。もちろん本来の運河だって、人工物であるのだが、物流などの目的があったのに対して、住宅街の運河に必然性を感じられないせいであろうか。

B地点(明治通り第一踏切)
 

B地点  【推定線路跡表示】
右手の空地が貨物線跡。
和田岬線は、兵庫駅付近が嵩上げ
されたので、上り勾配になっている。

  DD13

兵庫港貨物線現役時代の唯一の写真。
1984年1月撮影。考えてみたら廃止直前。

 兵庫港貨物線は、兵庫駅からしばらく和田岬線と平行して走っていた。
 私が神戸に住むようになったのは昭和56年(1981年)、兵庫港貨物線が廃止されたのが昭和59年(1984年)であるから、当然、現役時代の姿も見ることはできた。
 でも、手元に残っている兵庫港貨物線の写真は、たった1列車のみである。実はその列車を撮った場所がこの踏切なのだ。
 今は和田岬線の線路しかない踏切に立つと、いつものことであるが、あのとき、もっと撮っておけばよかったと後悔の念にかられる。それも廃線になってから、わざわざ見に来るなんて、これも鉄ちゃんの因果な性である。
 この踏切からすぐ南側で、国道2号線をアンダークロスし、川崎重工兵庫工場前に至る。この工場では鉄道車両を製造しており、新製車両輸送用の引込線も和田岬線から分岐している。折りしも、工場内では新幹線の700系(たぶん)が出庫待ちをしていた。さすがに大柄な新幹線は和田岬線経由というわけにはいかないので、トレーラーで陸送である。そういえば、夜中に国道2号線を走っていたら、交差点を新幹線が曲がってきて、ぎょっとしたことがあったなあ、なんてことを思い出した。



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