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 兵庫県の西部に転勤して初めて迎えた2012年の夏、部下のひとりから、毎年恒例の職場イベントを姫路の手柄山公園で開くとの報告があった。
 どんなイベントなのかイメージできないこともあって、手柄山と言われたら、不謹慎ながらモノレール跡のほうが、先に頭に浮かんでしまう。
 姫路市営モノレールとして、1966年に姫路駅〜手柄山間の1.6キロが開業したものの、1974年休止、1979年廃止と、営業距離だけでなく、営業期間も短いものであった。廃線跡には、当時の高架が部分的に残っているのは有名で、2011年には、永く手柄山駅の構内で眠っていた車両も公開された。
 私自身、現役時代は知らないが、新幹線で姫路を通るたびにモノレールの橋脚が目に留まり、いつかは訪ねようと思いながら、例によって、そのうちそのうちと先延ばしにしていたのである。今回の職場イベントはちょうどいい機会だ。
 でも、その部下が言う。
 「イベントと言っても、受付をするくらいですから、わざわざお出ましいただかなくても構いませんよ」
 「いやいや、ちょっとだけでも顔を出すよ」
 「モノレールですね」
 なぜわかる!なぜばれる!!

117系
モノレールとは何の関係もないが、せっかくなので117系のクハ117とモハ117の写真を載せてみた。
2011年7月、湖西線蓬莱〜志賀間で撮影。

 そもそもこの男は怪しいのである。
 ある宴席で、たまたま話題が鉄道車両の車体標記に及び、
 「クハ117の『クハ』とか『モハ』とか、それぞれ意味があるんですよね」と彼が言う。
 「ちょっと待った!どこから117が出てきた!!なぜ117系なんだ!!!」
 と詰め寄ったものの、「いえ、なんとなく」とはぐらかされてしまった。1980年代、京阪神間の新快速として活躍した117系を挙げるとは只者ではない。
 やはり彼は隠れ鉄ちゃんではないかとの疑いは、深まるばかりなのである。

A地点(手柄山駅付近)
 それはさておき、モノレール跡である。
 イベントの受付は昼で終わって解散後、早速、手柄山駅跡へ行ってみる。今は、手柄山交流ステーションとして、水族館も設けられているが、レンガ風のやたら立派な建物は、開業当時のままだ。入り口から2階のホームに上がれば、そこに2両編成の200形が保存されている。
 日本以外では採用されずじまいだったというロッキード式のモノレールで、2001年の小田急電鉄向ケ丘遊園線の廃止により、同方式の現役路線は既にない。保存車両とはいえ、ロッキード式の車両が見られるだけでも希少なのだ。
 公開に当たり、手は入れられたのだろうが、ずっと庫内で保管されていたこともあってか、状態は比較的よく、車内に入ることもできる。ホームには、おそらく当時のままの時刻表や、山陽電鉄の古い広告なども残されていて、水族館ついでに寄ったと覚しき家族連れなどが三々五々訪れていた。


元駅舎の手柄山交流ステーション 200形モノレール車両
元駅舎の手柄山交流ステーション。
今も出入口となっている建物正面中央のアーチ状の部分から、モノレールが出入りしていたそうだ。
展示されている200形車両。
40年以上前の車両だが、デザインにあまり古めかしさは感じない。


200形の車内 山陽電車の広告
すっきりした印象の200形車内。
ホームの広告も当時のまま。写真は山陽電鉄の須磨浦公園の広告。


 交流ステーションを出て、回廊のような通路を通り、エレベーターで地上に降りる。1階から出たのに、エレベーターで地上に降りるってどういうこと?と思われるかも知れない。言葉では説明しにくいのだが、建物自体が山の中腹にあるのだ。
 駐車場を横切り、姫路へ向けて歩く。参考にした「鉄道廃線跡を歩く」第5巻の写真では、このあたりでも高架が残っていたが、今は撤去されて跡形もない。

B地点(月見橋付近)
 文化センター前のT字路を右に折れて、船場川に架かる月見橋を渡ると、ほとりに忽然と高架が現れる。途切れた高架橋が恨めし気に空を見上げている。
 ここからしばらく山陽本線にかけて、高架が川沿いに残っている。
 ただ、山陽本線の手前でいったん途切れ、「鉄道廃線跡を歩く」で最大の遺構と言われた山陽本線を越える跨線橋は既にない。おそらく姫路駅の高架化に伴い、撤去されたのであろう。


船場川に立つ橋脚shadowshadow



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姫路市営モノレール 路線図  地図を閉じる

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