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ある日の富士急行
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 銚子電気鉄道の項で触れたとおり、高校の文科系クラブでは年2回の小発表のイベントがあり、鉄研では富士急行をテーマに選んだことがあった。発表に合わせて、富士急行の歴史や車両などについてまとめた「憧憬」と称する冊子を発行したが、当時高校1年でまだ鉄道には詳しくなかった私は紀行文の担当となった。
 今、その紀行文を読み返してみると、どうでもいい話が延々続き、全文掲載するのは忍びない。そこで余計な部分は端折ることとした。「ちょっと待って、私たちの文章はそのまま載せたのにずるい」と、豊肥本線の項で、エッセイを無断転載した女子部員のTさんSさんのふくれっ面が目に浮かぶようだが、勘弁してもらおう。
 なお、残した文章も手を入れたいのはやまやまながら、そのままにしてある。

 オレンジ色の中央線の電車に乗って、高尾駅に向かった。集合は高尾駅、9時30分。そして37分発の普通電車で富士急へ向かう。去年の12月にも一度行ったのだが、そのときの集合時刻も9時30分、すなわち、同じ列車に乗るわけである。
<中略>
3100形
3100形。(1974年12月撮影)
3100形はもう1編成あったが、本文に書いたとおり1971年に踏切事故でブレーキが破損、暴走転覆して多くの犠牲者を出す大惨事が起きてしまい廃車となった。
 途中で、特急「あずさ3号」に抜かれたりしたが、意外に早く大月駅に着いた。精算して、富士急のホームに行ってみればやはり、この前と同じように3100系と7000系の2編成がいる。かっこよくて、性能のよい3100系のほうに乗りたかったのだが、次の発車は7000系のほうなので、しょうがないからあきらめて7000系のほうに乗った。例によって3枚あるドアの内、真中のドアは、暖房効果を上げるということで閉められたままである。さて、車内は、この前に比べて土曜日であるせいか、割合混んでいて、座ることはできなかった。車内は、おばさんやスケートぐつを持った若い観光客が多かった。中には富士山でも写すつもりなのか、カメラと大きな望遠レンズを持っている人もいた。いつも通勤電車に乗り、背広や学生服姿を見慣れている私にとって、少々不思議な趣であった。
<中略>
 列車の交換をするためか、少々停車することがあった。カーブで先が見えないので、ほんとうに交換するのか、それともしないですぐ発車するのかわからない。それで、ドアが閉まらないかを確かめながら、恐る恐るホームにでてみた。さすがに肌寒い。しかし、開放感も手伝って、すがすがしさのほうが強かった。はたして、“でんしゃちゅうい”と書かれたランプと、さながら歩行者用信号といった人間のシルエット付のランプとが点滅して、電車の来ることを知らせた。私は国鉄の乗り入れている車両が来ると予想したのだが、カーブから顔を見せたのは、富士急の3600系であった。屋根のなだらかな丸みが、なぜか印象に残った。
<中略>
貨車の入換え作業
下吉田駅で入換作業中の様子。
最後尾は富士急行のワフ2だ。
(1974年12月撮影)
 下吉田に着いたときも、2ヵ月来たときと同じだった。前に来たときは、「変な電車がいる(それが荷物電車モニ100であることは後で知った)。」と興味を覚え、下吉田で降りて写真を撮ったりした。そのとき、ちょうど予備の電車が、貨車(国鉄型ばかりだったが、車掌車だけは富士急のもので、ワフ1とワフ2がいた)の入換をしていたのだが、慣れていないというか、要領が悪いというか、貨車をあっちにつなげては、はずしたり、またこっちにつなげてみては、はずしたり、ガチャガチャやっていて見ていておかしかった。ついに、このモニ100まで連結してしまい、荷物を扱っている人が「おいおい、この電車も持っていく気か。」とあわてさせるほどだった。しかし、モニ100が悪いのではないのだが、あののっぺりした車体にユーモラスな顔をしたモニ100が、いたずらをして、入換の調子をくるわせて、なんともいえないこのおかしさをつくりあげているような気がした。こんなこと書くと、モニ100が怒るかも知れない。そんな一種のなつかしさを持ったモニ100とも再会した。思い出の下吉田を出発し、電車はいよいよ、富士吉田に到着する。車庫とか、事故で廃車になった3100系の一両なんかを横目に見て、建設中のターミナルビルの目の前で電車は止まった。富士吉田から、電車は、バックで河口湖へ向かうのである。私たちは、いったん、富士吉田で降りることにした。
<中略>
 昼食後、ここ富士吉田にある、富士急の鉄道課を訪ねて、いろいろお話しを聞いた。その話しのあい間にも、鉄道課の窓からは。あのモニ100や、3月でスクラップになるという自社製気動車、キハ58が富士吉田に到着し、河口湖へ出発する姿を見ることができた。
<中略>
 もっと電車にのって、あちらこちら行ってみたかったが時間がなさそうだった。とにかく次の急行で帰らないと遅くなる。その急行はあと20分ぐらいでくる。河口湖駅へ来て、河口湖へ行かないのも、皮肉ではあるが、それは富士山を見ることでがまんした。やはり富士山はでかい。思わず「富士は日本一の山」と口ずさみたくなる。急行に乗り込み。再び富士山に驚く。今度はたそがれの富士である。窓から富士山が見えなくなるまで、カープをまがるたびに首を右に左に動かしていた。いつのまにか夜だった。私たちは、オレンジとグリーンの国鉄の急行型電車の中から、今日一日に.富士山に、そして富士急行に別れを告げた。


モニ100

モニ100(1974年12月撮影)

 いやはやお粗末様でした。もっとも、鉄道車両を擬人化してしまう癖は、今も変わらないような気がする。
 なお、富士急行のキハ58は、訪問直後の1975年3月ダイヤ改正で、併結する中央本線の気動車急行が電車化されたため役目を終えたが、実際はスクラップとはならず、和歌山県の有田鉄道(廃線)に譲渡された。確か富士急行の職員からスクラップと言われたように記憶しているが、職員も譲渡の話は聞いていなかったのかも知れない。それよりも、その職員から「お目当ては両運転台のキハ58かい?」と尋ねられても意味が分からず、拍子抜けした顔をされたことのほうがはっきり覚えている。それくらい、当時は鉄道のことに疎かったのである。

【1975年発行「憧憬」第16号】
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