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箱根登山鉄道の沿線
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 ある日の富士急行に続いて、今回も高校鉄研の「憧憬」に掲載した原稿を引っ張り出してきた。
 富士急行から2年経ち、ほんの少しましな文章になったものの、「〜駅を出ると」という表現が4回、「小ぢんまり」が3回も出てきて、我ながらいらいらする。当時は「推敲」という行為を知らなかったのだろうか。やはり手を入れたくなるが、それは抑えて全文そのまま載せることにした。読みにくい点はご容赦を。

 小田急線で小田原駅に着くと、ホームの端に小ぢんまりとした特徴のある電車が待機している。これが箱根登山鉄道の電車だ。電車は小田原駅を出ると、小田急線との三線区間を走り新幹線の下をくぐって箱根板橋に到着する。三線区間は昭和25年に、小田急が箱根湯本まで乗り入れるためにつくられた。その当時は複雑なポイントも手動で、動かすのも重労働だったそうだ。さて電車は、築堤をのぼり、国道1号線を越えて、風祭駅に着く。この駅は有効長が短く、小田急の特急や急行と交換ができず、ダイヤ作成上での障害となっているそうだ。その風祭駅の次は入生田である。ここには小ぢんまりとした車庫があり、中では車両の検査がおこなわれていた。さて三線区間も次の箱根湯本で終わりだ。また架線電圧も1500ボルトから600ボルトに変わる。箱根湯本に着く直前、室内灯が一瞬消えて、600ボルトに変わったことを知らせてくれる。
 箱根湯本を出ると、すぐに80パーミルの勾配を登る。登山電車の本領を発揮するのはこれからだ。また温泉も多くなり、一駅ごとに温泉地があるようになる。トンネルを入ると、出口ははるか上にあり、入口はずっと下の方になり、勾配のきつさに改めて驚くのである。次の駅、塔ノ沢はトンネルとトンネルの合間にある。ここも温泉があるが、旅館のある国道1号線に出るには、山道を少し歩かねばならない。駅前が温泉というのなら利用者も多くなるだろうが。


早川橋梁

早川橋梁を渡る(1976年12月撮影)
せっかく二眼レフを持参しながら、撮影したのはこの1枚だけ。


 塔ノ沢を出ると、大平台駅まで80パーミルの連続だ。しばらくして早川を渡る。全線で早川を渡るのはここ1ヶ所だけで、それだけに大きなトラス橋だ。橋を渡ると最初のスイッチバックである出山信号所に到着する。運転手と車掌が居場所を交替して発車する訳だが、観光客は駅でもないようなところに停車し、おまけに運転手と車掌が外へ出るのを見て、故障かと心配そうな顔をする。そして反対に走り出すと、もっと驚くのだが、勾配を上りはじめてやっと安心する。そうして大平台に到着する。ここもスイッチバック駅である。大平台は小ぢんまりした旅館が多く、静かで落ち着いた感じである。


大平台駅 宮ノ下駅
大平台駅(1976年12月撮影) おそらく宮ノ下駅(1976年12月撮影)
対向列車の車内から撮影。


 さて電車は大平台を出ると、もう一度スイッチバックして宮ノ下駅に到着する。結局3回方向転換したことになる。宮ノ下駅前の坂道で、八百屋のトラックがとまっていて、付近の人が4〜5人集まって買物をしている。その坂道を下ると国道1号線だ。国道沿いには英語の看板が立ち並ぶ。宮ノ下は外人の客が多いそうで、のぞいてみた店の中はなるほど外人客だけであった。ただ基地の町立川を知っている私には、基地周辺にある英語の看板の店を連想させて、あまりいい印象は受けない。交番にまでPOLICEと書かれていたのには滑稽さまで感じた。温泉郷と書かれた路地を行くと、大きな建物ではあるが旅館にしては古く汚れた建物があった。洗濯物も干してあり、アパートのような感じだ。表札を見ると、○○旅館従業員寮とある。○○旅館といえば、国道沿いにあった大きな旅館だ。八百屋のトラック、この寮、観光地箱根でいつも外面ばかり見ていた私が、ふと内側を垣間見たような気がした。神社の境内で遊ぶ子供達、ゴミ袋をよいしょと運ぶおばさん。そんな姿を見て、あたりまえのことだが、箱根にも私達の町と同じような性格があるのだなと思う。


山中を行く

山中を行く(1976年12月撮影)


 さて、宮ノ下の次は小涌谷だ。ここで国道1号線と別れる。しかし、小涌谷温泉に行くにはその国道を1キロほどいかねばならない。ここでも電車の方が不利だ。駅の近くからも煙はあがっているのだが。
 小涌谷を過ぎると勾配も緩やかになり、彫刻の森を経て終点強羅へ至る。彫刻の森駅は、昔は二の平という駅で、やはり小さな温泉であったが、彫刻の森駅ができて、ぐっとモダンな感じとなった。
 電車も彫刻の森を横目に見ながら走る。さて小田原から走り続けて50分、ようやく終点の強羅に到着する。ここから先はさすがに登山電車では無理で、早雲山まで行くケーブルカーが待ち受ける。さらにその先へ、ロープウェイが通じているのである。


宮ノ下交差点のあたり

宮ノ下交差点のあたり(1976年12月撮影)

 以上でおしまい。宮ノ下温泉郷の英語の看板にけちをつけたりして素直じゃないが、何かと反抗したくなるのは高校生の頃にはありがちなこと。
 なんて言い訳してもしかたないが、観光地宮ノ下の普段着の光景に、「なんだ、うちの近所と同じじゃないか」と感じた記憶は鮮明に残っている。
 それから40年余り経った今、国内の観光地はインバウンド需要とやらで大盛り上がりだ。宮ノ下界隈は、どんな様子になっていることだろう。

【1977年発行「憧憬」第21号】
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