<本文は1979年に書いたものです>
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 片上鉄道調査も終え、山陽本線和気から夜行急行『阿蘇・くにさき』に乗りこんだ。割と混んでいて、どうにか通路側の座席を確保した。 翌朝、博多に停車した際、ハイシーを買ったので、ついに手持ちの金は22円になってしまった。 はす向かいのボックスにはどうやら鉄道ファンらしい3人連れが、14系のリクライニングはバタンバタンうるさいとか、関門のEF81は全部常磐線かなあと話しながら、(ここからが問題)おいしそうにパンを食べていた。ほんとに腹がへったので、 「ヤァ、ヤァ、ヤァ、あんたがたも鉄道ファンですか、ここで会ったのも何かの縁ですなあ。パンちょうだい」と声をかけようと思ったが、あまりにみじめなのでやめた。
 終点熊本から鈍行ディーゼルに乗り換え、八代へ。ここから肥薩線の鈍行客車に乗った。なんと鉄道ファン3人連れも一緒だった。 肥薩線はノートのメモによれば、一勝地駅や、渡駅がいい感じの駅となっているが、今はもうまったく覚えがない。
 人吉で大畑(おこば)ループへ向かう鈍行客車に2時間の待ち合わせだったので、ついにメシを食うことにした。空腹の反動か、ランチ600円なんてのを頼んでしまった。 ウエイトレスにランチと告げると、すぐ僕は外へ飛び出した。どこへゆくのか。もちろん、郵便局へ金をおろしに行ったのである。 駅前にあるのかと思ったら、結構遠くにあり、おりからの雨に濡れて食堂に戻ってくると、誰もいないテーブルの上には、しっかりとランチが置かれていた。 となりでは鉄道ファン3人連れが安いカレーやチキンライスを食っていた。
 ワハハ、逆転じゃ。
 食事を済まし、余裕を取り戻すと、例の3人連れの一人に声をかけてみた。
「こんにちは、『阿蘇』からずっと一緒ですね」
「そーですね。肥薩線では編成を調べてたりしたでしょう」
「あっ見てたんですか(やはりお互い意識していたらしい)」
「学生さんですか」
「エエ、S大学です。そちらは?」
慶応大学の鉄研です」
「いやァーそうですか、すごいなあ、アハハ(また負けた)」
 そのとき、食後に頼んでおいたコーヒーが運ばれてきた。
「ヘェー、昼から豪勢ですねェ」
「いやァーそれほどでも、アハハ(勝った!)」
 慶応は、今年、日豊線の青井岳で合宿で、現地集合のため、仲良し3人組で肥薩線経由で来たという。 2人は湯前線の乗りつぶしに行き、一人は大畑ループを鈍行で越えたいので残ったという。 同じ鈍行列車ファンということで意気投合し、人吉13:17発853列車に2人で乗ることになった。
雲の中へ
雲の中へ(大畑ループ)

 853列車は、DD51重連に客車はオハフ33 361の1両。あとは貨車が10数両であった。 客車にはお客がポツリポツリと言いたいところだが、どやどやと10人くらい、髪をちりちりにし、アロハシャツを着たツッパリ連が乗りこみ、ラジカセで八神純子かなんかをかけ始めたからたまらない。 せっかく客車の音を録音しようとしていた慶応boyくんは、何にもできないと嘆いていた。 みなさんも車内でラジオ、カセットを聴くときは、イヤホンをしましょう。
 さて、天候はあいかわらず悪く、大畑ループは雲の中。慶応boyくんから矢岳のSL館に誘われ、大畑の次、矢岳で降りた。 2人で去りゆく列車をカメラで追うと、ツッパリ連が窓からワーワーと手をふるのであった。いや参った。
 SL館には8620とD51が置かれており、2人で逆転器を動かしたりして遊んだ。 そして、約40分後の急行『えびの』に乗り、湯前線に行っていた2人とも合流した。 吉松で青井岳に向かう慶応boysと別れ、僕は快速『やたけ』を待った。雨はどしゃ降り、集中豪雨のため、『やたけ』は約30分遅れた。 予定では大隅線をまわるつもりだったが、いつ列車が止まるかわからないので、そのまま『やたけ』で西鹿児島まで乗った。 ここからDF50 556のひく夜行急行『日南10号』に乗り、九州を北上する。
 最近は夜行も冷房化が進み、他のお客さんは喜んでいるだろうが、こちらは大変。 クーラーつけっばなしで寝たら、身体の調子が狂ってしまう。しかたないのでTシャツの上に長袖のYシャツを着て、バスタオルにくるまって寝た。盛夏の九州だぜ、まったく。 ただ、盆前の上り列車ですいていたのは助かった。

 翌朝、山陽線から夜行でやってきた急行『雲仙・西海』に小倉で乗りかえ、新装なった佐賀へ。そして唐津線唯一の鈍行客車列車727列車に乗った。オハフ33 490、
「この車は暗いけん、向こうのほうが明るいとですよ」
と車掌さんに言われても、車内がニス塗りの古いこの客車を選んだ。
 なんかのびーとして、両手広げて「どっちが景色いいでしょうかねぇ」と車掌さんに聞いたら、「どっちもかわらんけんねェ」と気の毒そうな顔をした。 最初に景色の話をしてしまったので、車掌さんが気にしてしまって、唐津線は炭鉱線だったので景色はよくないんですよと残念そうに話してくれた。 でもその分、唐津線のことをよく知ってもらいたいという心づかいからか、検札に来るたびに唐津の地図をくれたり、これが沿線で一番長いトンネルだと説明してくれたり、楽しい鈍行列車の旅を味わった。 終点の唐津に着く直前、右側に唐津城が見えるからぜひ見なさい、あともう少し、もう少し、と一生けんめいな車掌さんに答えるために、よーし、絶対見てやろうと目をこらしていると、あっ見えた。 山の上にかわいらしいお城がちょこんとのっかっていた。
 西唐津からはバスで東唐津へ行き、鈍行ディーゼルで伊万里、有田を経て、鳥栖へ帰ってきた。 鳥栖から鹿児島本線で2つ手前の基山から2年ぶりの甘木線キハ20 440単行でついに甘木に到着。 『甘木焼』で有名な宮田菓子舗に落ち着いた。3人のいとこ達がみんな少しずつ変わっているのが面白かった。おしまい。

【1979年12月発行キロポスト第82号】


本編は国鉄の乗りつぶしの記録で、鉱山軌道やローカル私鉄がテーマと謳った
このページには、ちょっと合わなかったも知れません。
実は続編に鹿児島交通などの旅行記を書いたものがあったはずなのですが、
肝心の『キロポスト』が見当たらないので、とりあえずここまでとします。

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背もたれがロックせず、常に背中を押し付けていないと、 バネの力でバタンと戻ってしまう国鉄末期らしいひどいシートだった。
今はもちろん改良されていると思う。
当時、関門トンネル専用のEF81が配備され始め、 一般型は常磐線に転換された???
(要は覚えていない)
軌道めぐりでも触れたが、勾配に弱い鉄道はスイッチバックか、らせん状にループして高度をかせぐ。 大畑ループは雄大でSL時代からファンが多い。
ちなみに、
 DD51  1029
 スハフ42 118
 オハ 46  609
 オハ 46  611
 スハフ42 285
という編成だった。
もちろん一流大学であるが、鉄研界においても大御所で、本も数多く出版している。
客車と貨車の混成、すなわち混合列車。
国鉄でも何箇所か見られたが、現在は消滅。(なにより客車列車自身が激減)
ウオークマンや携帯電話のマナーが問題になる現代では信じられない話であるが、 当時、車内でラジカセを鳴らす輩は少なからずいたものだ。
手前味噌ながら名前からわかるように親戚のお店です。 今は『菓秀 桜』の屋号で盛業中です。 甘木にお越しの節は、ぜひお寄りください・・・・・

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