古部から加津佐へ向かったはずなのだが、ネガは1枚の写真を挟んで、もう帰りの上り列車から撮った写真になってしまっている。加津佐の駅舎すら撮っておらず、当時の私はいったい何を考えていたか、我ながら理解不能である。
その1枚というのが、下の写真。もしかしたら、これが加津佐駅のような気もするが、何ひとつ思い出せない。
でも、加津佐での出来事をはっきり覚えているので、行ったことは間違いないのである。
その出来事とは鉄道とは無縁のこと。例によって所持金が心細くなった(おそらく加津佐から帰りの切符が買えない)ので、郵便貯金をおろそうと郵便局へ行くと、老人であふれかえっている。何事?と尋ねると、今日は年金の支給日だという。やむなく長蛇の列に並ぶが、加津佐の折り返しの列車に間に合うか、冷や汗をかいたのであった。
帰りの列車は、古いキハ4500を選んで乗車したようだ。
はす向かいのボックスには、夏休みなのに、寸暇を惜しむように参考書?を読みふける女子生徒が座っていた。
ラケットは見えないが、スコート姿なので、テニス部の練習帰りなのだろう。
途中、原城駅で、貨物列車と交換。牽引するD37形の3号機は、今は『ふかえ桜パーク』で保存されている。
さらに深江駅でキハ55と交換。その後ろには、デッキ付のえも言われぬスタイルをした荷物・郵便車が連結されていた。
後ろ姿を撮ったが、タイミングが遅い。すれ違いざまに荷物・郵便車を見つけて慌てて撮ったのが、ばればれだ。
この車両、調べてみると、ユニ200形という車両で、元は、中国鉄道の気動車だそうである。
上り列車を南島原で降りて、車庫の写真を撮らせてもらう。ここでの写真も8枚しか残っておらず、夜行で疲れていたのか、もう一度来る前提で、下見のつもりだったのか。
その日のネガは、車内から撮った保存車両のC12の写真で終わっている。
ただ、その後、多比良港から長洲へ渡ったのは間違いない。長洲港から鹿児島本線の長洲駅までの道のりが意外に遠くて、荷物をかかえて汗だくになって歩いた記憶がはっきり残っているからだ。
つまり、「冷や汗」と「汗だく」が、島原鉄道の一番の思い出というわけだ。う〜ん、やはり身体で覚えたことは忘れない(汗)
【1979年8月現地、2011年1月記】