2.その後の下津井電鉄
高校、大学時代は夢のように過ぎ去り、社会人2年目となった1982年(昭和57年)5月、ようやく下津井電鉄の再訪を果たした。6年ぶりの下津井電鉄は、合理化がさらに進んだためか、うらびれた感じが一層濃くなっていた。
終点の下津井駅にあった廃車たちこそ、多少整備されて並べられてはいたが、構内は線路敷のまま貸駐車場になっていたり、出札窓口ではオロナミンCを併売したり、増収策も涙ぐましい。
出札窓口では、売れ残った1〜2年前の記念切符がまだ販売中で、極めつけは10年前に廃止されたはずの茶屋町〜児島各駅の切符が100円均一で売られていた。
「高い」とは思ったものの、ついつい何枚か購入してしまったが、先ほどの貸駐車場やオロナミンCといい、大した増収にはならないだろう。かえってわびしさが募る。
「やっぱり廃止は近いかも知れない」そう思わざるを得なかった。
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1枚100円で買った茶屋町〜下津井の切符と林〜茶屋町往復切符。
この2枚の切符、発行日付がないのも変な感じだが、運賃などからかなり年代は異なるようだ。
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その後、鷲羽山にも寄ってみた。定番の鷲羽山の裾野を走る電車の姿を撮って、駅に戻る。
しばらくすると、珍しく若い女性ばかりの観光客7〜8人が駅にやってきた。そしてヨタヨタと走ってきたモハ1001を見るなり、「な〜に、これ」と笑い転げている。
モハ1001は、笑われて憤慨するというより、恥ずかしそうに、ただでさえ小さな車体を一層縮こまらせているように見える。
「何だよ、もっと堂々としていろよ」と言うのにかえて、わざとその観光客に目立つようにバシャバシャと写真を撮り、「この電車は貴重なんだぞ」と暗に主張したつもりなのだが、通じたかどうか。
それにしても若い女性たちには、せめて「かわいい〜」と反応してもらいたかった。
3.最後の下津井電鉄
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新装なった児島駅に停車中の『メリーベル号』
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1988年(昭和63年)、瀬戸大橋が開通した。
同時に、てっきり廃止かと思っていた下津井電鉄は、新車『メリーベル号』を入れて、俄然、気合が入っていた。
行ってみたいとは思ったものの、前回からさらに5年の歳月が流れる間に、今度は結婚2年目になっていて、鉄ちゃん活動はしにくい状況になっていた。
ところが、そのカミさんから「瀬戸大橋に行ってみたい」と言われ、「しめた!」早速、計画を立てる。
下津井電鉄をメインにするとばればれなので、目的はあくまで瀬戸大橋経由の四国旅行である。
こうしてできあがった四国までの行程は、次のようなものであった。
まず、神戸を車で出て、瀬戸大橋を渡り、丸亀に一旦車を置く。そして丸亀港からフェリーで下津井へ。(あくまで海から瀬戸大橋を鑑賞するのが目的である)
下津井からは、これももちろん橋を眺めるため、下津井電鉄に乗って児島へ。ここでJRに乗り換え、再び瀬戸大橋を渡って丸亀に戻る。
つまり、瀬戸大橋をフルコースで楽しもうというもので、今見ても、我ながらほれぼれする行程である。
実際、かの宮脇俊三先生が『鉄道廃線跡を歩く』第2巻で書かれていたように、フェリーからは瀬戸大橋が間近に眺められ、迫力あるものであった。また、瀬戸大橋を渡るJRは、海上を飛んでいるような不思議な気分が味わえ、これまたすばらしい車窓であった。
で、下津井電鉄は、というと、新車の『メリーベル号』はオープンデッキもあって、なるほど眺望はいい。ただ、肝心の瀬戸大橋は、沿線でちょこっとしか見られず、いかにも中途半端であった。
おかげでフェリーやJRの印象が強かった分、『メリーベル号』の記憶が薄い。おそらく、カミさんに至っては、乗ったことさえ忘れていることだろう。
結局、1990年(平成2年)末、下津井電鉄は廃止され、『メリーベル号』も、たった2年余で役割を終えてしまった。おりしも瀬戸大橋が開通したころは、バブル景気真っ盛りで、日本中が開発ブームに沸いていた。短命だった『メリーベル号』は『悲運の電車』と言えるのだろうが、少々酷な言い方をすれば、そんなブームに乗せられた『あだ花』だったという気がしてならない。
なんだか暗い締めくくりで申し訳ない。
【2001年10月記】