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タイトル
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 本当にそうだったのか、今となっては確かめようがないのだが、高校時代、クラブ活動の合宿は、海を渡ることを学校が認めないと先輩から言われていた。
 いや、海を渡ると言っても、海外ということではなく、本州を出て、北海道や四国、九州に渡るという意味だ。
 まあ考えてみれば、文化系クラブの合宿で、遠出の必要性などないし、学校が合宿費用の一部を援助していたので、当然とも思っていた。
 ところが、その先輩が言う。 「俺、阿蘇へ行きたいから、部長のおまえが責任を持って教師を説得してこい」
 確かに部長はしていたのだが、たまたま同期の男子部員が私と半分幽霊部員の2人、女子部員2人という状態(考えてみたら鉄道研究会なのに不思議な男女比)で、しかたなく部長を引き受けたのが正直なところなのだ。それなのに、ずいぶん酷な注文である。
 でも、先輩の指示には逆らえず、恐る恐る職員室を訪ね、生活指導の教師に、なぜ九州合宿が必要なのか、豊肥本線がいかにテーマにふさわしいのか、説得に努めた・・・はずなのだが、何ひとつ内容を覚えていない。きっと屁理屈を並べただけなので、説明した本人すら記憶に残らなかったのだろう。
 そんないい加減な説明にも関わらず、九州合宿はあっさりOK。
 それで冒頭の「本当にそうだったのか」という疑問に戻るのだが、もちろん教師にそんなことを聞くのはやぶ蛇だ。OKをもらったのだから、長居は無用、そそくさと職員室から退散したのであった。


山へ挑む
この写真は、夏合宿のときのもの。
スイッチバックへ向かう急行『火の山』
 こうして1975(昭和50)年3月、晴れて豊肥本線での合宿が実現したのである。
 当時、私はまだ1年生で、買ってもらったばかりの一眼レフを携えての参加であった。
 というわけで、豊肥本線は、撮り鉄の第一歩を踏み出した路線として、個人的には格別の思い入れがある。

 春合宿を終えて4月を迎えると、新入部員の季節だ。
 前年に比べて人数もはるかに多く、鉄分も濃い。彼らには、その後のクラブ活動で、いろいろと刺激を受けたものだ。
 鉄分の濃いメンバーにとって、豊肥本線の注目は、やはり立野駅のスイッチバックだ。だから、新入部員を加えて再び豊肥本線へ向かった夏合宿では、立野駅での撮り鉄が中心になったのは必然なのであった。

スイッチバックを行く

スイッチバックを下る普通列車。小さすぎて形式が判然としないが、キハ52+キハ55+キハ52だろうか。


スイッチバックへ向かう貨物列車

入れ替わりに、立野駅で普通列車と交換した貨物列車が、DE10の推進運転でスイッチバックへ向かう。



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