その1 粟生線の橋梁 地図(Google Map)を表示
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■ D地点「山田川橋梁」
話がそれすぎた。橋梁に話を戻そう。
垂井避溢橋から、市場側は、小山を越えるという感じで、神戸電鉄も50パーミルの急勾配である。
山を越えて、下った先がD地点、山田川橋梁だ。この橋梁も、道路の部分を除いて2種類のガーダーを組み合わせている。
そこにちょうどやってきた上り列車を撮影したら、列車がぶれぶれ。直前に橋の陰の銘板を撮るために、シャッタースピードを落としていたのをうっかり忘れていた。
山田川橋梁の2つのガーダーは、嬉しいことに両方とも銘板が残っている。写真左側(小野側)のガーダーが1900(明治33)年パテントシャフト社(英国)、右側が、ちょっとわかりづらいが、1903(明治36)年汽車製造と読める。いずれもかなり古い橋梁だ。さらに右にはあの「K.T.K.」の銘板も。
また、写真でもおわかりのように、年代の古いパテントシャフト社のガーダーはJの字の補強となっている。
ということは、銘板のなかった垂井避溢橋の市場側のガーダーも、補強材がJの字だから、同じパテントシャフト社製かと思わせるが、比べてみると、ちょっと違う。山田川橋梁のJの字は、きれいにカールしているのに、垂井避溢橋のほうは角張っているのだ。リベットの打ち方も少々異なるので、別のメーカーだろうか。
こちらがパテントシャフト社の銘板。
PATENT SHAFT &
AXLETREE CO LD
ENGINEERS
1900
WEDNESBURY
そしてこちらが汽車製造の銘板だ。
楕円形で、ローマ字だけの表記と、他で見かける同社の銘板とは趣が異なっている。でも、どう見ても、「KISHA SEIZO」としか読めないのだけど。
1903年といえば、同社が発足して間もないころで、まだ自社スタイルを確立しておらず、海外メーカーの銘板を真似たのだろうか。などと勝手な想像を巡らせている。
THE KISHA SEIZO KWAISHA
−BUIDERS−
TOKYO. 1903.