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番外5 夢の跡編その4 津軽の森林鉄道跡
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しばらく更新をさぼっていた軌道めぐり。
そこに火をつけたのが、二村さんのホームページ「二邑亭駄菓子のよろず話」だ。二村さんは撮り鉄というだけでなく、昔の何気ない町の風景もたくさん撮っていて、それが今の目から見れば、とても貴重なものばかり。「定点写真でめぐる東京と日本の町並み」という本も出版しているくらいなのだ。その二村さんのホームページで少し前に公開されたのが、「懐かしい日本の町並み」のコーナーの「青森県」。そこには、十三(じゅうさん)、金木、蟹田などの地名が並ぶ。これは同じ二村さんのページの「時刻表にない鉄道を求めて」のコーナーで、すっと以前に公開された「津軽半島の森林鉄道(跡)」訪問時に撮ったものに違いない。
実は津軽の森林鉄道跡には、私自身、寄り道程度ではあるものの、訪ねたことがあった。二村さんに2回も取り上げられて、ついに辛抱たまらず、追っかけで記事にすることにしたのである。
二村さんには了解を得て、関係するページは、直接リンクも張らせてもらっているので、適宜参照願えればと思う。
■ 十三湖
初めて津軽を訪ねたのは、高校時代の1976年7月のこと。それまで旅行は家族か仲間でするものと思い込んでいたが、なぜか急に一人旅がしたくなり、選んだのが東北の地であったわけだ。
一人旅だから、当たり前だが行程はすべて自分で考えることになる。そこで組んだのが次の行程で、リンクのとおりいくつかは既に訪問記をアップ済みだ。こうして並べてみると、偏っているというか、まさに軌道めぐりと言える旅なのであった。
1日目 鈍行列車を乗り継いで遠野へ(移動のみ)
2日目 大洞鉱山など
3日目 尻屋(日鉄鉱業)
4日目 南部縦貫鉄道・奥羽種畜牧場
5日目 津軽鉄道・十三湖
6日目 五能線
7日目 峠駅・鈍行を乗り継いで帰京
このうち、十三湖行きの決め手となったのは、なんと言っても当時の観光ガイドブックにあった地図である。無断転載は気が引けるが、掲載してみた。クリックすれば拡大できるが、そこには至る所に森林鉄道を示す軌道が走っている。これを目にして、色めき立つのは必然なのであった。もちろん、森林鉄道自体は廃止されていることはわかっていたが、何か痕跡が残っているかも知れない。地図によれば、津軽鉄道の終点、津軽中里から十三湖へ向かう国道339号線は、何箇所も森林鉄道とクロスしている。よし、そこまでバスで行って、確かめてみよう。
そして当日、予定どおり津軽中里からバスに乗ったはずなのだが、どこで降りてどう歩いたのか、全く記憶が残っていない。おそらく何も軌道跡を見つけられず、そのまま宿泊地の十三の集落へ向かったのだろう。でも、集落へ入る手前で、十三湖を渡る橋に着いたときのことは忘れられない。なんと木橋が延々と続いていたのである。地元の方には失礼な言い方になるが、高校生にとっては、さすが辺境の地だとただただ驚くばかりの光景なのであった。件のガイドブックには、十三湖はかつて港として栄えたことなどが紹介されていたが、木橋には何も触れていない。木橋こそ取り上げるべきとは思うが、事前に何も知らなかったおかげで、出会ったときの感激も大きかったのである。
早速渡ろうとすると、大きなトラックがやってきた。一緒に渡るのは怖いのでやりすごして後追いで撮影したのが下の写真だ。木材を満載したトラックは相当な重さのはずだが、もちろん木橋はびくともしない。
幅の狭い木橋ではあるが、ちゃんと歩道が設えられていた。その歩道から対向車を撮る。古めかしい木橋とは対照的なとてもかっこいい車だ。5ナンバーだから日本車と思ったのだが、サイドミラーが当時の日本では認められていなかったドアミラーではないか。ということは外車か?と、ネットでさんざん調べたものの車種はわからず終い。
調子に乗って、滅多にしない記念写真まで撮っていた。逆光で真っ暗な顔を拡大してみると、満面の笑みを浮かべている。木橋に興奮したこともあるが、橋の上は猛烈な風で、思わず笑っちゃったというのが本当のところだ。
敢えて逆光で撮ったのは、右下にちょこんと見えるチョコレートのアポロのような形の山を入れようとした気がする。地図で確認すると、角度的に靄山に違いない。整った円錐形であることから、実はピラミッドではないかと言われることもあるそうだ。あながち作り話ではないかも、と思わせる不思議な風情が十三にはある。
橋を渡り終えて、湖岸から橋を望む。ちょうどダンプカーが渡ってきたところだ。
橋上で猛烈な風に煽られたとおり、湖面も大きく波立っている。二村さんが紹介してくれたYouTubeの青森放送の映像でも、十三湖は時化ることが多く、かつて渡し船しかなかった時代は、遠回りを余儀なくされたそうだ。それが1959年、難工事の末に木橋が完成してそういう不便は解消されたという。なるほどと合点はいくが、木橋自体はもっと古いものかと思っていた。1959年なら、もはや木ではなく鉄骨やコンクリートでつくる時代ではないかとこれまた不思議な感じがする。
ちなみに橋の長さは398m、幅は3.9mだそうだ。1979年には架け替えられて、その使命を終えたとのこと。20年で姿を消してしまうとは、木製ゆえの定めなのか、ちょっとさみしい。
最後にもう一度、橋に戻ってマイクロバスを撮っている。ずいぶん遠い位置だが、写真をよく見ると歩道がない。ということは、橋の上では逃げ場がないので、早めに撮影して待避したのだろう。どこから歩道がなくなったのかわからないが、写真左上に見えるゲートのようなところから歩道は途切れたのだろうか。
そのゲートは、船が通れるように橋の一部を跳ね上げるための支柱だということも、青森放送の映像で知った。訪ねたときはまったくそのことに気づかず、惜しいことに素通りしてしまったのであった。
木橋を渡って、予約していた十三の民宿に落ち着く。
夕食時、おかみさんから「ひとりでは淋しいでしょう、みんなと一緒に食べませんか」と促されるまま、座敷に行ってみると、大宴会が始まっていた。どうやらこの民宿の本業は建設業の類で、仕事を終えた職人さんたちが集まっていたようだ。う〜ん、どう考えても高校生には場違いだな、と思いながら夕食をとったのも、今となってはいい思い出である。
何という民宿であったのか、写真はもとよりメモすら残しておらず、残念なことに全く思い出せない。そのかわり、二村さんが古い十三の町並みを撮影してくれている。もしかしたら、その中に泊まった民宿が写っていたりするかも知れない。
・・・と、締めくくってしまったけど、本来の「軌道めぐり」はどこへいったの?それも木橋のことばかりで、行けなかった二村さんへの当てつけ?と言われそうだが、十三での成果は、何をおいても木橋しかなかったわけで、ご容赦いただきたい。
ところで、翌日は小泊へ北上する手もあったのだが、逆に木造(きづくり)行きのバスで南下して、前述のように五能線へ向かった。一方、二村さんは小泊へも足を向けている。 崖っぷちに並ぶ枕木などシュールな廃線跡で、これも見てみたかったと今さらながら思う。